大久保佳代子の大学と高校が驚異的!受験秘話や学生時代のかわいい画像あり

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今回は、お笑いタレントの大久保佳代子さんについてご紹介します。

大久保佳代子さんの出身大学と出身高校について調べてみると、大久保佳代子さんの頭脳が素晴らしいことが判明しました。大学時代のかわいい画像とともにお伝えします。

大久保佳代子の大学と学部が驚異的!受験秘話が凄い

出典:post.tv-asahi.co.jp

大久保佳代子さんが高校を卒業した後に進学したのは、千葉大学文学部です。

千葉大学文学部の偏差値は57.5~60ですので、千葉大学の文系学部の中では国際教養学部(偏差値は62.5)に次ぐ2番目に難しい学部ということになります。

千葉大学は言わずと知れた国立大学ですので、センター試験(2021年からは大学入学共通テストに改変)を経て入学しています。センター試験では、国語、数学、英語に加えて、地歴、公民、理科の6教科が試験科目となっているため、高校時代に幅広く勉強しなくてはなりません。

そしてさらにセンター試験の約1カ月後には2次試験が待ち構えており、大久保佳代子さんは国語、数学、英語の試験科目に挑み、見事合格を勝ち取ることができました。

千葉大学文学部に入学したのは、1990年4月です。

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さて、そんな大久保佳代子さんが千葉大学を進学先に選んだのは、とにもかくにも東京に上京したかったからだそうです。地元の愛知県を離れた大学を選ぶ際に大久保佳代子さんの父親が出した条件は学費でした。

大久保佳代子さんの父親は、もし家を出て大学に行きたいのであれば、”仕送りの代わりが学費だから一切仕送りはしないという条件を出したのです。

つまり、学費が高い私立大学に進学することは許されず、国立大学へ進学するように言われたのです。

とは言え、大学進学後、多少は実家からの仕送りがあったようですが、大久保佳代子さんの実家は、金銭教育もしっかりとされていたようです。

大学生活は西千葉で送っており、家賃6万円で間取りは2Kの物件に住んでいました。

大学進学当時のことについて、大久保佳代子さんは以下のように振り返っていました。

・お茶の水女子大学は難関過ぎて合格できない

・東京芸術大学や東京都立大学は合格ギリギリのラインだから怖い

・筑波大学は(茨城県つくば市にあるため)東京都内から遠すぎる

大久保佳代子さんの母校である成章高校の卒業生の中には、全国の国公立大学に進学する生徒がいますが、その主な進学先は、地方の国公立大学が多い一方で、首都圏の国公立大学進学者は少ないことから、大久保佳代子さんは成績優秀者だったと言えます。

大久保佳代子さんの頭脳が明晰なのは、小さい頃から習っていたそろばんの影響が強いようです。

大久保佳代子さんの特技は暗算で。珠算に至っては二段の腕前を持っています。幼い頃には地元で開催されの珠算大会で準優勝をしたことがあります。

大学時代は、千葉大学のサークルには所属せず、早稲田大学お笑いサークル・寄席演芸研究会に所属しており、そこで幼馴染の光浦靖子さんと一緒にオアシズを結成しました。

インターネット上では、大久保佳代子さんの出身大学が早稲田大学だと言われていますが、こちらの情報はデマで、早稲田大学のサークルに籍を置いていたというのが正しい情報です。

大久保佳代子の大学時代は順風満帆!かわいい画像あり

大久保佳代子さんは、大学時代の自分自身をこのように語っていました。

・高校時代には、キラキラとしたキャンパスライフを期待していたが、実際に入学してみる千葉大学が都会にはないため、想像と違っていた

・大学に入学した後にできた友達は、入学式の際に同じ列に並んだ女子4人だけだった

・大学内にいる学生はいずれも地味な子ばかりで、キラキラとしたキャンパスライフからはかなりかけ離れていた

・キラキラとしたキャンパスライフではなかったものの、教員免許取得に励んだ(単位が多すぎて手に負えないことが判明し断念)り、スカッシュサークルにも在籍した(サークル内の雰囲気に馴染むことができずに退部

・教員免許取得とサークル活動は途中で挫折したが、大学の授業には欠かさずに出席していた

・そんなときに、東京外国語大学に通っていた相方の光浦靖子さんから早稲田大学のお笑いサークルに入らないかと誘われ、結果的にはこれが芸能界に入るきっかけとなった

また、大学時代の男性関係については、以下のように語っていました。

サークルの部室は早大にほど近い、古いアパートの一室。さえないお笑いオタクみたいな男子ばっかりなんですが、さすがに話は面白いし居心地がいい。私たち女子は「なんだこの不細工な男どもは?」って思ってましたけど、向こうは向こうで「あーあ、ぱっとしない女子ばっか!」って。お互いを下に見てました。

引用:dot.asahi.com

で、たまにちょっとかわいい子が見学に来ると、男子、色めき立つ、みたいな。馬鹿でしょう? でもそれが楽しくて。しょっちゅう、千葉から早稲田まで通いましたよ。交通費もかかるし、顔を出せば必ず飲みに行くことになるから、アルバイトもしました。オシャレにお金を費やしたことはなかったけど、人付き合いにはいそしんでましたね。

引用:dot.asahi.com

学業とサークル活動を通じて得たものが現在の芸能界での活動の肥やしになっていることは紛れもない事実です。

大久保佳代子さんは自身のことを以下のように分析しています。

今のお笑い界ではひらめきや発想力をもった芸人が多数在籍しているが、自分自身はひらめきも発想力もない

しかし、お題さえ与えられれば、それを3時間考えるようにしているようです。大学受験の際にも時間を決めてきっちりと取り組めば結果が出ることがわかっているので、その成功体験を今の仕事でも活用しているとのことです。

大学受験勉強をしていた高校生の頃の経験も、今の大久保佳代子さんにとっては欠かせないものだったようです。

大久保佳代子さんご自身の学生時代や学生生活の詳細を語ったロングインタビューの内容が、千葉大学のホームページにも掲載されていますので、ご興味のある方は一度ご覧下さい。

大久保佳代子さんが自らの学生時代を詳細に語ったロングインタビュー

大久保佳代子の高校は県内屈指の名門校

出典:eiga.com

大久保佳代子さんの出身高校は、愛知県立成章高等学校です。

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出典:seisho-h.aichi-c.ed.jp

愛知県立成章高等学校は、江戸時代に創設された田原藩の藩校成章館を前身としている県内屈指の名門校です。旧制県立中学の流れを組む県内屈指の伝統校として、多くの人材を世に排出し続けています。

愛知県田原市にあり、普通科、商業科、生活文化科が併設されているのが特徴です。

ちなみに、相方の光浦靖子さんとは、小学校から高校まで同じ学校でしたが、同じクラスになったのは高校3年生の頃の1年だけです。

緩すぎず、きつ過ぎずの校風が特徴的なのですが、最近では弓道部や野球部が全国大会に出場するなど、スポーツでも名を連ねる存在になりつつあります。

高校時代の大久保佳代子さんは、大学に合格するために運動系の部活動は選択せずに、天文地学部を選択しました。主な活動内容は、部員全員で夜空を眺めて流れ星を見つけると手を挙げることだったようで、文字通りきつ過ぎず緩過ぎずの活動をしていました。

ここまでを読み進めると、いかにも勉強ばかりをしていた3年間に思われがちですが、実はお笑いネタを披露するなどクラスのリーダー的存在でもありました。

また、光浦靖子さんを含む友達と”男子とは口を利かない同盟”を結んでいました。今では彼氏がいない、結婚できないキャラとして認知されていますが、当時からそのキャラが確立していたんですね(笑)

悲願である大学合格のためには、彼氏はもちろんのこと、男子の存在は必要悪とまで考えていたのかどうかまでは定かではありませんが、高校時代に男っ気が全くなかったことは確かです。

ちなみに、大久保佳代子さんの自宅から通える距離に塾や予備校などは一切なく、今のようなオンライン環境も全く整っていなかったため、受験勉強は完全に独学でした。

毎晩深夜1時に電話で友達と連絡を取り合い、お互いに鼓舞し合いながら苦しく長い受験生生活を送っていました。

大久保佳代子の中学校はUFOがモチーフ

出典:post.tv-asahi.co.jp

大久保佳代子さんの出身中学は、田原市立田原中学校です。

出典:wikiwand.com

この画像は、田原中学校の体育館を写したものなのですが、1994年に愛知県で行われた第49回わかしゃち国体の際に、バレーボール会場用として建設されました。モチーフはUFOだそうで、奇抜なデザインが当時かなりの注目を集めました。

大久保佳代子さんが田原中学校に入学したのは1984年4月ですので、この体育館が建設されたときにはすでに社会人として東京で生活していました。

中学時代はバレーボール部に所属していました。強豪チームではなく練習もそれほど厳しくはなったのですが、レシーブ担当として3年間ボールを追い続ける日々でした。

先ほど、高校時代にはクラスメイトに対してお笑いネタを披露するなどクラスのリーダー的存在だったということをお伝えしましたが、その片鱗は中学時代から姿を現していました。

周囲からは”カバ子”と呼ばれていた大久保佳代子さん。普通の女子であれば心が折れて学校に行きたくないとまで思ってしまうような扱いですが、大久保佳代子さんは違っていました。

カバ子と呼ばれることをむしろおいしいことと捉え、些細なことでも笑いにしようとする言動が、大久保佳代子さんをクラスのムードメイカーに仕立て上げました。

自宅では、お笑い番組や歌番組を見るのが日課でした。特に歌番組は食い入るように見ていて、お気に入りの番組はTBS系で放送されていた『ザ・ベストテン』でした。司会者がする歌の説明があまりにも短時間で聞き取り辛かったときには、素早くメモを取り即座にそれを清書し、翌日学校に持って行っていました。恐らく、ザ・ベストテンを見逃したり聞き逃したりした友達にその内容を伝えるためだったのでしょう。

大久保佳代子は小学校の頃から知能指数が高かった

出典:orangepage.net

大久保佳代子さんの出身小学校は、田原市立田原中部小学校です。

このブログの前半でも簡単にご紹介しましたが、大久保佳代子さんは小学校の頃に珠算を習っていました。

また、小さい頃から歌が好きだったため、部活は合唱部に所属していました。また動物も大好きで、獣医かムツゴロウ王国のスタッフになりたいと思うほどでした。

そして3年生から4年生の頃に光浦靖子さんと仲良くなったそうで、クラスは違っていても常に一緒に遊んでいました。

今から考えると、とても頭の良い2人が揃っていたんですね。まさかこの2人がその後芸能界で大活躍するとは誰も思っていなかったでしょうね。

大久保佳代子や光浦靖子は一流の大学に通う大学生だったのになぜお笑いの世界に?

大久保佳代子さんや光浦靖子さんが大学生だった頃は、バブル経済が崩壊し就職難だったことから、一流大学の大学生であっても就職先を見つけるのが難しい就職難でした。

大久保佳代子さんも光浦靖子さんも、お笑いという仕事に興味を持つ続けていたため、大学卒業後はOLとお笑いの二足の草鞋を履いた状態で活動していましたが、OLとして就職した先(コールセンター)は働きたいと思っていた会社ではなかったようです。

相方の光浦靖子さんが二足の草鞋を履きつつも、早い段階からテレビでのレギュラーの仕事が決まっていったため、内心は決して穏やかではなかったようですが、じっと我慢し続けた結果、徐々にクイズ番組等で頭脳が明晰であることが浸透し始め、2010年に15年間勤めたコールセンターの仕事を辞め、芸人だけで食べていける状態になりました。

大久保佳代子の大学卒業後(OL時代)の辛い体験とは

大久保佳代子さんは14年間もの間、OLをしていた時期がありました。オアシズが結成されたのは1992年ですが、結成したその年に、何とバラエティ番組のレギュラー出演が決まるという最高のスタートを切りました。

しかし、翌年に番組改編が行われ、新番組には光浦靖子さんだけが出演することになり、事実上、大久保佳代子さんは外された形となりました。

大久保佳代子さんだけが外された理由はとても辛辣なものでした。その理由とはずばり、「光浦靖子さんは笑えるブスだが、大久保佳代子さんは笑えないブスだから」でした。

実力主義の芸能界とはいえ、大久保佳代子さんにとってはとても辛い経験だったと思います。

新番組から外された大久保佳代子さんは、1996年頃から2010年8月までの約14年間、OLとタレントの掛け持ちをしていました。

本人曰く、大久保佳代子さんが勤務していた先はコールセンターの会社で、業務内容はクレーム処理だったそうです。芸能活動と掛け持ち状態だったため、出勤日数は週2日程度だったということです。

大久保佳代子さんが勤務していた会社名を調べてみましたが、さすがに会社名までは明らかになりませんでした。唯一判明したのは、勤務地が神奈川県川崎市溝の口であったということです。

掛け持ちをしていた14年間は、表にはださないですが相当辛かったはずですが、途中で投げ出さずに地道に芸能活動を続けた結果、今の大成功があるのだと思うと、大久保佳代子さんの仕事に対するスタンスには見習うべきところが多くあることを実感しました。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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