山田邦子は若い頃のピークが短かった!嫌われ干された理由がヤバい

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出典:post.tv-asahi.co.jp

今回は、タレントの山田邦子さんについてご紹介します。

山田邦子さんは若い頃、芸能界で唯一天下を取った女性ピン芸人と称されたのですが、ピーク時期が短かったため、その活躍ぶりや才能の凄さを知らない人も多いのが実状です。ピーク時期が短かったのは山田邦子さんが嫌われ干されたためだとのことなのですが、嫌われて干された理由について深堀りしてみました。

山田邦子は若い頃のピークが短かった

出典:withnews.jp

山田邦子さんと言えば、1990年代に漫才ブームに付随する形で巻き起こったお笑いブームで大注目されたタレントさんです。
冠番組も多数持ち、多い時ではレギュラー番組を14本も持つなど、女性で唯一天下を取ったお笑いタレントとの異名も持っています。

山田邦子さんの名前が全国に広まったのは、1989年から1992年にかけてフジテレビ系で放送されたバラエティ番組『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』で、それ以降は山田邦子さんの名前が入った冠番組を複数持つようになりました。

また、バラエティ番組だけではなくCDも発売していて、当時大人気だった女性アイドルデュオ・WinkのパロディユニットであるやまだかつてないWinkでデビューし、『さよならだけどさよならじゃない』は当時の流行と相まって大ヒットを記録しました。

そしてさらには、タカラトミーのリカちゃんシリーズで、山田邦子さんをモデルとしたク二ちゃんが販売されるほどの人気でした。

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タレント、歌手、おもちゃ業界など様々な業界で認知度を高めた結果、1996年にNHKから発表された好きなタレント調査で、好感度1位を獲得しました。

まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムの階段を登っていた山田邦子さんでしたが、突如1990年代後半に仕事が激減し、テレビでその姿を見る機会が少なくなりました。

山田邦子さんの芸能生活がスタートしたのは1981年のことで、当時はタレントではなく女優業を生業としていました。1981年にTBS系で放送されたドラマ『野々村病院物語』が女優としてのキャリアの第一歩目だったのですが、すぐにタレント業にシフトして以降、1990年代初頭までは順調に売れていたにもかかわらず、1990年代後半にはピタッと仕事が減り、その姿を見る機会が減りましたので、山田邦子さんのピーク時期は意外にも短いことが分かります。

山田邦子が嫌われ干された理由がヤバい

出典:number.bunshun.jp

山田邦子さんが突如テレビに出演しなくなったのは、山田邦子さんが30代半ばの頃で、そのことを聞かれた際には、(テレビへの出演機会が激減したのは)ブームが終わったからではないかと返答していました。

しかし、世間では山田邦子さんの仕事が激減したのには、何か他の特別な理由があるのではないかと勘繰る動きも複数見られました。

ぎりぎりの状態だった

出典:subsclive.jp

山田邦子さんが人気絶頂の真っ只中にいた頃、所属事務所である太田プロのマネージャーからは、現場に行かない限りはギャラが出ないから這ってでも現場に行けと言われていました。

今では考えられないような過酷な労働環境で仕事をしていたため、山田邦子さんは毎日倒れるか倒れないかのぎりぎりのところで仕事をしていました。そんな様子を見るに見かねた番組スタッフやテレビ局側が山田邦子さんの体調面を気遣って、仕事のオファーを減らしていったのではないかと考えられます。

ですので、山田邦子さんは嫌われたわけでも干されたわけでもなく、周囲にいる人間が健康を気遣って

不倫スキャンダル

出典:grapee.jp

毎日ぎりぎりの状態で仕事に臨んでいた山田邦子さんではありますが、色恋沙汰があったのも事実です。

1982年にはツーツーレロレロ時代の大森うたえもんさんと交際していることが週刊女性によってスクープされたり、自身の担当マネージャーや、先輩であるビートたけしさんとも恋の噂が出回るなど、仕事以外の面でも世間を賑わせていました。

多忙な中、どのようにして男性と会う時間を作っていたのかが謎ですが、1995年には既婚のテレビ局関係者との不倫が写真週刊誌『FOCUS』に報じられました。そしてそのお相手とは最終的に2000年1月に結婚しましたので、当時は山田邦子さんが略奪婚をしたと騒がれました。

いくらタレントとは言え、数々の男性との色恋沙汰がスクープされたり、略奪のイメージが先行してしまうと、テレビ局や製作サイドからすれば使い辛いと考えるのが自然ではないでしょうか。

芸能リポーターへの暴言

出典:news.mynavi.jp

1995年12月に発売された写真週刊誌『FOCUS』でテレビ制作スタッフとの恋愛スキャンダルが報道されたことは先ほどもお伝えした通りですが、その際に、数々の芸能リポーターから執拗に追い回されたことがありました。

中でも井上公造さんとは因縁がありました。交際に関する井上公造さんからの質問に対して山田邦子さんはイラっとしたのでしょうか、突如井上公造さんに対して、「お前もてないだろう」「バカじゃないの」と罵倒したのです。そしてさらに間が悪いことに、その罵倒シーンがワイドショーで放送されてしまいました。

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この一件で世間の山田邦子さんに対するイメージが崩れてしまい、結果的には仕事が激減する羽目になったと考えられます。

テレビに出すぎてブームが去った

出典:jprime.jp

これまで放送局を問わず数々の番組に出演してきたことから、山田邦子さんに知名度は非常に高くなったのですが、その一方でマンネリ化していたことも事実です。

山田邦子さんの露出過多が原因で、山田邦子さんが出演する番組の視聴率が低下していくと同時に、どうしてそんなタレントが好感度ナンバー1に鎮座し続けているのだという疑問やバッシングの声も聞かれるようになりました。

1995年にNHKで放送された大河ドラマ『八代将軍吉宗』では、徳川吉宗の生母である浄円院役を演じたのですが、そのキャスティングがミスキャストだと揶揄されました。

浄円院は農民の出だという説があり、当時庶民的なタレントだともてはやされていた山田邦子さんが選ばれたのですが、視聴者の間では、山田邦子さんが浄円院役を演じていることに対して違和感を覚えるという声が少なくなく、そのことが発端で山田邦子さんに対するバッシングが始まったと言われています。

ギャラが高すぎた

出典:tv-tokyo.co.jp

山田邦子さんはデビュー当初、芸能事務所に所属していなかったためマネージャーがおらず、タレント業とマネージメント業務を両立させていました。

その後、大手芸能事務所である太田プロに所属し、給料が歩合制になったため、月収が6倍にまで跳ね上がりました。山田邦子さんによると、当時の最高月収は1億円だったそうで、当時は今と違って給料を現金で手渡しされる時代でしたので、紙袋程度ではとても入りきらないほどの現金が毎月毎月、山田邦子さんの元に入ってきていました。

もちろん最高月収が1億円ですから、その状態がずっと継続したわけではないにしても、それで全盛の頃には年収は10億円は下らなかったのではないかと思われます。

さて、そんな山田邦子さんが全盛の頃は、バブル経済が崩壊して間もない頃で、不況の波が芸能界にもじわじわと浸潤してきていました。番組制作費を削減しようという動きが各テレビ局で起こり始め、その動きはタレントにまで波及してきていました。

特にメイン出演者である山田邦子さんには、テレビ局側がかなり高いギャラを支払ってきていたため、番組制作費の削減対象のやり玉に挙げられたのも自然なことです。ギャラを下げるだけならまだしも、当時視聴者の間でマンネリ化してきていた山田邦子さんに対しては、ギャラの引き下げではなく、降板という厳しい措置が下されてしまったのかもしれません。

スタッフに物申した

出典:tv-tokyo.co.jp

衝撃が走ったのは1992年のことでした。当時高視聴率を記録し続けていた『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系で1989年10月から1992年3月まで放送)が打ち切りになることが突如発表されたのです。

打ち切り理由については、表向きには当時のフジテレビ会長・鹿内宏明さんの指示の下、ゴールデンタイムに音楽番組を復活させるためだ説明されていましたが、実際には山田邦子さんが番組スタッフに腹を立てて意見をしたからだと言われています。

番組に出演するレギュラーメンバーを頻繁に変更するスタッフに対して不信感を持った山田邦子さんが、一緒に番組を作ってきたメンバーを簡単に交代させるのはやめるべきだと意見し、最終的にはメインMCの山田邦子さんが番組降板を申し出たことで、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』が打ち切りとなってしまったということです。

山田邦子が若い頃に天下を取れた理由が参考になる

出典:geino.press

先ほども何度かお伝えした通り、山田邦子さんの代名詞的番組と言えば『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』ですが、番組内では俳優やミュージシャンが数多く出演し、特にKANさんの代表曲『愛は勝つ』や大事MANブラザーズバンドの『それが大事』は、番組で披露して以降、大ヒットを記録しました。

また、山田邦子さん自身も一般視聴者を対象としたビデオオーディションを実施し、そのオーディションで選ばれた横山知枝さんとともにデュオグループであるやまだかつてないWINKを結成し、卒業ソングの定番曲である『さよならだけどさよならじゃない』が大ヒットしました。

それら一連の活動が世間に認められ、山田邦子さんはNHKが行った好きなタレント調査において、1988年から何と8年連続で好感度タレント1位を記録し続けました。

さらには、1992年に出版した自身2作目の著書『結婚式』は、発行部数40万部を超えるベストセラーになるなど、多方面で活躍していました。

一方で、山田邦子さんはいち演者としてだけではなく、プロデューサー・フィクサーとしての側面を持ち合わせていたことも特筆に値します。吉本新喜劇の間寛平さんを自らが出演するコントのオープニングに登場させ、関西のお笑いを全国区に広めました。

以上より、山田邦子さんが若い頃に天下を取ることができたのは、ただ単なる演者としてだけではなく、共演者やスタッフの気持ちを率先して汲み取り、少しでも多くの人が楽しんで喜べるような作品を届けたいとの思いが誰よりも強かったからなのだと思われます。

2022年12月に行われたM1では、審査員に抜擢されて久々に全国区の番組に出演した山田邦子さん。今度の動向には引き続き注目していきたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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