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五木寛之さんの妻はどんな人なのか、写真はあるのか、現在も生きてるのかと気になっている人も多いのではないでしょうか。五木寛之さんの妻である五木玲子さんは、早稲田大学文学部と東邦大学医学部で学び、精神科医として勤務したのち、美術家としても活躍してきた異色の経歴を持つ女性です。
この記事では、五木寛之さんの妻の写真が確認できる資料や、五木玲子さんの現在と年齢、現在も生きてるのかという疑問について詳しく紹介します。さらに、早稲田大学時代の馴れ初めや1965年の結婚、夫婦仲、子供の有無、父親の岡良一さん、五木寛之さんの著書で手がけた装画についてもわかりやすく解説します。
五木寛之さんの妻の現在を知りたい人はもちろん、五木玲子さんが53歳から始めた裸婦デッサンや、その後の版画家としての歩みに興味がある人にも役立つ内容です。五木寛之さんを長年支えてきた妻というだけでは見えてこない、五木玲子さん自身の人生や夫婦の歩みまで詳しく見ていきましょう。
五木寛之の妻・五木玲子はどんな人?写真や現在・生きてるのかを詳しく解説
- 妻は五木玲子|1934年に石川県金沢市で生まれた経歴を紹介
- 妻の写真はある?五木玲子の顔がわかる画像や掲載情報を調査
- 妻は生きてる?五木玲子の現在や年齢について解説
- 妻の現在は?美術家として続けてきた創作活動を紹介
- 妻は精神科医だった?早稲田大学と東邦大学で学んだ異色の経歴
- 妻の父親は岡良一|衆議院議員や金沢市長を務めた人物
妻は五木玲子|1934年に石川県金沢市で生まれた経歴を紹介
五木寛之さんの妻は、医師や版画家として活動してきた五木玲子さんです。五木寛之さんといえば、長年にわたって日本文学の第一線で活躍してきた作家なので、妻はどんな女性なのか気になりますよね。五木玲子さんは単に著名作家を支えてきた妻というだけではなく、医学と美術という異なる分野で自分自身のキャリアを築いてきた人物です。
五木玲子さんは1934年、石川県金沢市に生まれました。旧姓は岡で、父親は岡良一さんです。岡良一さんは衆議院議員を務めたほか、のちに金沢市長となった政治家で、泉鏡花文学賞の創設にも深く関わった人物として知られています。金沢市図書館が国立国会図書館のレファレンス協同データベースに提供した資料でも、五木玲子さんが1934年に岡良一さんの三女として金沢に生まれたことが確認できます。
五木玲子さんの経歴を簡単に整理すると、次のようになります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 五木玲子さん |
| 旧姓 | 岡玲子さん |
| 生年 | 1934年 |
| 出身 | 石川県金沢市 |
| 父親 | 岡良一さん |
| 学歴 | 早稲田大学文学部、東邦大学医学部 |
| 職歴 | 精神科医として病院勤務 |
| 結婚 | 1965年に五木寛之さんと結婚 |
| その後の活動 | デッサン、パステル画、版画、書籍の装画など |
特に目を引くのが、その学歴ですよね。五木玲子さんは早稲田大学文学部を卒業した後、さらに東邦大学医学部で医学を学び、医師免許を取得しています。文学部を卒業したあとに医学の道へ進むという経歴はかなり特徴的です。国立国会図書館のレファレンス協同データベースにも、医師免許を取得したのち数年間にわたり精神科の病院で勤務したことが記録されています。
先ほどのデータベースでも、五木玲子さんが早稲田大学文学部を卒業後に東邦大学医学部へ進み、1965年ごろから精神科医として勤務した経歴が確認できます。 1969年の金沢大学十全医学会雑誌には、精神障害者の社会復帰に関する研究の著者として五木玲子さんの名前も掲載されています。医学の世界でも実際に専門的な活動をしていたことがうかがえます。
そして1965年、五木玲子さんは五木寛之さんと結婚しました。二人は早稲田大学文学部に在籍していた学生時代に知り合ったとされています。五木寛之さんより五木玲子さんが2歳年下で、結婚した年には五木玲子さんが精神科の病院で働いていた時期でもありました。五木寛之さんの作家人生が本格化する少し前から、二人は夫婦として歩み始めたことになります。
結婚後には五木寛之さんとともにソ連や北欧を旅し、帰国後は金沢で暮らした時期もありました。2022年に公開された金沢に関する記録では、結婚した1965年当時、五木玲子さんが福井県内の精神科病院に勤務し、週末には列車で金沢へ戻っていたというエピソードも紹介されています。 五木寛之さんが作家として世に出る以前から、五木玲子さん自身も仕事を持ちながら生活していたわけですね。
さらに興味深いのは、五木玲子さんが50代になってから本格的に美術の世界へ踏み出したことです。1987年ごろ、53歳のときにカルチャーセンターの裸婦デッサン教室へ入り、初めて裸婦を描いたことが大きな転機になりました。その後はパステル画やイラスト、リトグラフ、銅版画、木版画、石版画などへ活動の幅を広げています。2019年には東京の丸善・丸の内本店で個展が開催され、初期から近年までの作品約70点が展示されました。
また、五木寛之さんの著書の装画も数多く担当しています。『大河の一滴』をはじめ、『運命の足音』『日本人のこころ』など、夫の代表的な書籍を五木玲子さんの作品が彩ってきました。作家と画家という形で一緒に作品を生み出してきた夫婦でもあるんですね。データベースでも、五木寛之さんの著書を中心に約40冊の装画を担当した経歴が確認できます。
1934年生まれなので、2026年時点では91~92歳程度にあたります。ただし、これは生年から単純計算した年齢の目安で、誕生日の日付によって変わります。医学を学んで精神科医として働き、その後50代から本格的に美術へ進み、版画家として夫の作品にも関わってきた五木玲子さん。五木寛之さんの妻という肩書きだけでは語り切れない、非常に幅広い経歴を持つ女性だといえるでしょう。
妻の写真はある?五木玲子の顔がわかる画像や掲載情報を調査
五木寛之さんの妻である五木玲子さんについて調べていると、写真を見てみたいという人も多いのではないでしょうか。ここ、気になりますよね。五木寛之さん自身はテレビや新聞、雑誌などで広く顔が知られていますが、五木玲子さんは芸能人ではなく、医師や美術家として活動してきた人物なので、ネット上で本人の顔写真が大量に掲載されているタイプではありません。
ただし、五木玲子さんに関する写真付きの報道や資料そのものは確認できます。
たとえば石川県立図書館のデータベースには、2006年5月25日付の北國新聞朝刊に掲載された、金沢での五木玲子さんの作品展を紹介する記事が収録されています。記事タイトルは五木玲子さんの作品展と夫である五木寛之さんの著書を取り上げる内容で、資料情報には写真有りと明記されています。 先ほどインプットしたデータベースにも、同記事について写真有りとの記録が残っています。
さらに、2011年10月7日付の北陸中日新聞系の記事として、五木玲子さんの画集『天の花 地の花』の出版を取り上げた資料も石川県立図書館に収録されており、こちらにも写真有りと記録されています。 つまり、五木玲子さんがまったく写真に登場してこなかった人物というわけではなく、画家として作品展や出版活動を行う中で、新聞などに写真が掲載された機会はあったと考えるのが自然です。
一方で注意したいのが、検索エンジンの画像検索だけを見て本人だと判断しないことです。五木玲子さんという名前で検索すると、夫の五木寛之さんの写真、五木寛之さんと対談した女性の写真、五木玲子さん自身が制作した絵画や版画の画像などが混在するケースがあります。実際、五木玲子さんに関連する検索でも、五木寛之さんと別の女性文化人が並んだ写真などが表示されることがあります。そのため、画像だけを見て、この女性が妻の五木玲子さんだと決めつけるのは避けたほうが安心です。
五木玲子さんの場合、本人の写真以上にネット上で見つけやすいのが作品画像です。2019年2月に丸善・丸の内本店で開催された個展では、リトグラフ作品の『森に聴く』をはじめ、初期から近年まで約70点が展示されました。記事では五木玲子さんが1934年生まれで、精神科医として働いた後、50歳を過ぎてから絵画や版画の制作を本格化させた人物として紹介されています。
2013年に大阪のワイアートギャラリーで開催された展覧会でも、デッサンや版画を中心に五木玲子さんの作品が紹介されました。展覧会情報では、50歳を過ぎて裸婦を描き始め、その後も作品制作を続けてきた経歴が詳しく紹介されています。 このように、五木玲子さんを画像で探す場合は、顔写真だけではなく、展覧会記事や作品画像、画集に関する資料まで含めて探すと人物像がかなり見えてきますよ。
また、2004年には丸善・丸の内店で五木玲子さんの版画展が開催され、五木玲子さんと太田治子さんによるサイン会も予定されていたことが当時の記録から確認できます。五木寛之さんと五木玲子さん夫妻が会食した様子について触れた記録も残されており、美術関係のイベントでは五木玲子さん本人が公の場に姿を見せていたことがわかります。
では、五木玲子さんの顔を確認したい場合、どこを探すのがよいのでしょうか。候補になるのは、石川県立図書館が保存している過去の新聞資料、五木玲子さんの展覧会資料、画集『天の花 地の花』、個展やサイン会を紹介した当時の記事などです。ただし、新聞資料に写真有りと記載されていても、その写真が必ず本人の顔を大きく写したものとは限りません。作品写真や会場写真の可能性もあるため、そこは区別して見る必要があります。
ネット上には五木玲子さん本人だとして紹介される画像もありますが、出典が示されていない画像については慎重に見るほうがよいでしょう。特にSNSやまとめサイトでは別人の写真が混ざる可能性もあります。本人の顔を確認する目的なら、新聞社、図書館、美術館、ギャラリー、出版社など、掲載元がはっきりしている資料から探すのがおすすめです。
五木玲子さんはテレビタレントのように自分の姿を広く発信してきた人物ではありません。そのため五木寛之さんの妻の写真を検索しても、すぐに鮮明な顔写真が何十枚も出てくるわけではないんですね。しかし、過去の新聞記事には写真付き資料が存在し、美術家として個展や出版、サイン会など公の活動も行ってきました。顔写真だけを追うより、そうした記録と作品を一緒に見ていくと、精神科医から美術家へと歩んできた五木玲子さんという人物をより立体的に知ることができます。
妻は生きてる?五木玲子の現在や年齢について解説
五木寛之さんの妻である五木玲子さんについて調べると、現在も生きてるのか気になって検索する人が少なくないようです。ここ、気になりますよね。五木玲子さんはテレビに頻繁に出演するタイプの人物ではなく、近年のプライベートも積極的に発信していないため、最近の姿を見かけないことから心配する人もいるのかもしれません。
2026年8月時点で確認できる公開情報を調べたところ、五木玲子さんが亡くなったことを伝える信頼できる訃報は確認できませんでした。また、五木寛之さんについても現在の配偶者として五木玲子さんが記載されている資料があります。さらに2026年2月には五木寛之さんの『大河の一滴 最終章』が幻冬舎から刊行されており、同書の表紙絵について五木玲子さんが手がけた作品だと紹介する2026年の書店・読者側の情報も複数確認できます。幻冬舎公式サイトでも同書が2026年2月12日に刊行されたこと自体は確認できます。
そのため、公開されている情報を総合すると、五木玲子さんは2026年現在も存命であるとみるのが自然です。ただし、五木玲子さん本人や所属先などから日常生活について定期的な近況報告が行われているわけではありません。現在どこでどのような生活を送っているのかといったプライベートな部分まで断定するのは避けたほうがよいでしょう。
では、五木玲子さんは現在何歳なのでしょうか。
五木玲子さんは1934年に石川県金沢市で生まれています。金沢市図書館が国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録した資料でも、五木玲子さんは1934年に岡良一さんの三女として金沢で生まれたとされています。
2026年から1934年を引くと92になりますが、公開資料では誕生日の月日までは広く確認できないため、2026年8月時点では91歳または92歳と考えるのが安全です。年齢については生年をもとにした一般的な目安として見てください。なお、2026年に公開された『大河の一滴 最終章』関連の投稿では五木玲子さんを92歳と紹介している例もあります。
五木玲子さんの人生を振り返ると、かなりユニークです。早稲田大学文学部で学んだ後、東邦大学医学部へ進み、医師免許を取得しています。その後は精神科の病院に勤務し、1965年に五木寛之さんと結婚しました。インプットしたデータベースでも、早稲田大学文学部と東邦大学医学部を卒業し、精神科の病院に数年間勤務した経歴が確認できます。
さらに50代から美術の世界へ進んだことも、五木玲子さんを語るうえで欠かせません。53歳ごろから本格的にデッサンに取り組み、パステル画、イラストレーション、リトグラフ、銅版画、木版画、石版画へと活動を広げていきました。2019年には東京の丸善・丸の内本店で個展が開かれ、初期から当時の近作まで約70点が展示されています。五木寛之さんの『大河の一滴』『運命の足音』『日本人のこころ』など、多くの著書で装画も担当しました。
2022年8月に東京書籍から発売された『歎異抄手帳』でも、五木寛之さんが訳を担当し、五木玲子さんが画を担当しています。80代後半になっても、夫の文学作品と美術という形で関わり続けていたことがわかります。
五木玲子さんの現在について情報が少ないのは、何か特別な事情があるからというより、もともと芸能活動をしている人物ではなく、私生活を広く公開してこなかったためと考えたほうが自然でしょう。五木寛之さん自身も妻について頻繁に語るタイプではありません。そのため、最近テレビで見ない、ネットに新しい写真が少ないというだけで、すぐに健康状態などと結びつけるのはおすすめできません。
2026年現在の情報を整理すると、五木玲子さんについて信頼できる訃報は確認されておらず、1934年生まれで91~92歳ほどにあたります。そして高齢になってからも、五木寛之さんの著作と深く結びついた美術家として名前が確認できる人物です。派手に近況を発信するのではなく、長年続けてきた創作を通してその存在が伝わってくるところも、五木玲子さんらしいのかなと思います。
妻の現在は?美術家として続けてきた創作活動を紹介
五木寛之さんの妻である五木玲子さんは、精神科医として働いた経歴を持つ一方、50代になってから美術家として本格的な創作活動を始めています。現在の五木玲子さんについて知りたいなら、この美術活動を外すことはできません。若い頃から画家一筋だったわけではなく、人生の後半から新しい世界へ飛び込んだという点がとても興味深いですよね。
五木玲子さんが大きな転機を迎えたのは53歳ごろです。カルチャーセンターの裸婦デッサン教室に入り、それまで本格的に経験していなかった裸婦を描き始めました。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに紹介されている五木玲子さん本人の略年譜でも、53歳からデッサンを始め、その後パステル画やイラストレーション、リトグラフ、銅版画、木版画、石版画などの制作を続けたことが記録されています。
一般的には50代になると、それまで築いてきた仕事や生活を維持することを優先する人も多いでしょう。ところが五木玲子さんは、そこから新しい表現の世界へ入っていきました。精神科医として人の心と向き合ってきた経験を持つ五木玲子さんが、今度は絵の線や色によって人間や生命を表現するようになったわけです。
その後の活動を時系列で見ると、創作の幅がどんどん広がっていったことがわかります。
| 時期 | 五木玲子さんの主な活動 |
|---|---|
| 53歳ごろ | 裸婦デッサンを始める |
| その後 | パステル画や雑誌のイラストを制作 |
| 1996年 | 初の個展を開催 |
| 64歳ごろ | リトグラフを中心に版画制作を本格化 |
| 73歳ごろ | 石版画にも取り組む |
| 2011年 | 画集『天の花 地の花』を刊行 |
| 2019年 | 丸善・丸の内本店で作品約70点を展示 |
| 2022年 | 『歎異抄手帳』で画を担当 |
五木玲子さんの作品の特徴としてよく挙げられるのが、力強い線です。2013年に開催された五木玲子さんのデッサンと版画の展覧会では、鉛筆、パステル、銅版画、リトグラフ、木版画と技法が変化しても、対象となる人物や植物の生命そのものに迫ろうとする強い線が作品の特徴として紹介されています。特に枯れた花や枯れかけた花を題材にすることがあり、老いや死を避けるのではなく、その中に残されている生命を描こうとする姿勢が作品に表れているとされています。
これは五木玲子さんの人生ともどこか重なる部分がありますよね。医師として人の心や病と向き合い、その後は50歳を過ぎて美術に挑戦する。若さや華やかさだけではなく、老い、衰え、生と死といったテーマに向き合って作品を作ってきたことが、五木玲子さんならではの世界につながっているのかもしれません。
そして、五木玲子さんの美術活動でもう一つ重要なのが、夫である五木寛之さんとの共同作業です。
五木玲子さんは『大河の一滴』『運命の足音』『日本人のこころ』など、五木寛之さんの数多くの著書で装画を担当しています。データベースでも、五木玲子さんが五木寛之さんの著書を中心に約40冊の書籍で装画を手がけてきたことが確認できます。 2019年に丸善・丸の内本店で開かれた個展では、五木玲子さんの作品約70点に加えて、五木玲子さんが装画を担当した書籍約60点も展示されました。
つまり、五木寛之さんが文章を書き、五木玲子さんがその本の世界を絵で彩るという関係が長年続いてきたわけです。夫の仕事を陰で支えるというだけではなく、それぞれが作家と美術家として作品づくりに参加しているところが、この夫婦の特徴でしょう。
2021年に展示内容が全面的に入れ替えられた金沢文芸館の金沢五木寛之文庫でも、五木寛之さんの著作や資料とともに、五木玲子さんの絵画や装画が展示されています。妻の作品が五木寛之さんの文学活動を伝える資料の一部として位置づけられていることからも、二人の創作が密接につながってきたことがわかります。
さらに2022年には、東京書籍から刊行された『歎異抄手帳』で、五木寛之さんが訳、五木玲子さんが画を担当しました。五木玲子さんが80代後半になってからも、夫の仕事と結びついた形で作品が世に出ていたことになります。
そして2026年2月には、五木寛之さんが93歳でまとめた『大河の一滴 最終章』が幻冬舎から刊行されました。 同書については、2026年の複数の紹介投稿で表紙絵が92歳の五木玲子さんの作品だと紹介されています。出版社公式の商品ページでは装画担当者まで本文中に記載されていないため、この点は関連情報として見ておく必要がありますが、五木玲子さんの創作が90代になっても五木寛之さんの著作と結びついていることを示す興味深い情報です。
20代や30代ではなく、53歳から本格的に絵を始め、60代、70代、80代と創作を深めてきた五木玲子さん。その歩みを知ると、何かを始めるのに遅すぎる年齢はないと感じる人もいるのではないでしょうか。五木寛之さんの妻というだけでなく、精神科医から美術家へと独自の道を歩き、長い年月をかけて自分自身の表現を築いてきた人物として見ると、五木玲子さんの現在までの人生がより鮮明に見えてきます。
妻は精神科医だった?早稲田大学と東邦大学で学んだ異色の経歴
五木寛之さんの妻である五木玲子さんについて調べると、精神科医だったという経歴に驚く人も多いのではないでしょうか。ここ、気になりますよね。五木玲子さんは美術家として知られていますが、もともと若い頃から画家ひと筋で歩んできたわけではありません。早稲田大学文学部で学んだあと、さらに東邦大学医学部へ進み、医師免許を取得して精神科の病院で勤務していたという、かなり異色のキャリアを持っています。
金沢市図書館が国立国会図書館のレファレンス協同データベースに登録している資料では、五木玲子さんについて1934年に岡良一さんの三女として金沢に生まれ、医師免許を取得したのち、五木寛之さんと入籍し、数年間にわたり精神科の病院で勤務したと紹介されています。 インプットした資料でも、早稲田大学文学部と東邦大学医学部を卒業し、1965年から精神科の病院で勤務した経歴が確認できます。
五木玲子さんの学びと仕事の流れを整理すると、次のようになります。
| 時期・項目 | 内容 |
|---|---|
| 1934年 | 石川県金沢市に生まれる |
| 大学時代 | 早稲田大学文学部で学ぶ |
| その後 | 東邦大学医学部へ進学 |
| 医学部卒業後 | 医師免許を取得 |
| 1965年ごろ | 精神科の病院で勤務 |
| 1965年 | 五木寛之さんと結婚 |
| その後 | 医療の仕事を経て美術活動へ進む |
特に興味深いのは、最初に早稲田大学文学部へ進んでいる点です。文学と医学では学ぶ内容が大きく異なるため、文学部卒業後に医学部へ進み直したという経歴には、五木玲子さんの強い知的好奇心や行動力が感じられますよね。出版社による五木玲子さんのプロフィールでも、金沢生まれで早稲田大学文学部および東邦大学医学部を卒業し、1965年から精神科の病院に勤務したことが紹介されています。
精神科での仕事も、単に医師免許を持っていただけという話ではありません。1969年の金沢大学十全医学会雑誌には、慢性精神疾患を抱える人の社会復帰をテーマとした研究に五木玲子さんの名前が掲載され、所属は金沢大学の神経精神科と記録されています。別の同年の研究でも、精神障害者の社会復帰における中間施設の役割を扱った報告に五木玲子さんが参加しています。 こうした記録を見ると、五木玲子さんが精神医療の現場や研究に実際に関わっていたことがよくわかります。
また、五木寛之さんと五木玲子さんは早稲田大学時代に知り合ったとされています。1965年に結婚した当時、五木玲子さんは精神科の病院で働いていた時期にあたり、福井県内の精神科病院に勤務して週末には列車で金沢へ戻っていたという記録もあります。 五木寛之さんがすでに大作家として成功していて、その妻として家庭に入ったというイメージとは少し違うんですね。五木玲子さん自身も専門職を持ち、自分の仕事を続けながら夫婦生活をスタートさせていました。
そして、この医師としての経験を経た後、五木玲子さんは50代から美術の世界へ本格的に進んでいきます。53歳ごろに裸婦デッサンを始め、パステル画やイラスト、リトグラフ、銅版画、木版画、石版画などへ活動を広げていきました。2019年の個展紹介でも、早稲田大学文学部と東邦大学医学部を卒業して精神科病院に勤務したのち、53歳から本格的に絵を描き始めた経歴が紹介されています。
文学を学び、医学を学び、人の心と向き合う精神医療に携わり、さらに人生の後半では美術によって人間や生命を表現するようになった五木玲子さん。この流れを知ると、医師と美術家という一見まったく異なる二つの仕事にも、どこか共通する部分が見えてきます。人の内面や生きることそのものに向き合うという意味では、精神科医時代の経験が後年の創作活動に何らかの形でつながっていた可能性もありそうです。ただし、本人が両者の関係を具体的に説明した資料までは確認できないため、ここは作品や経歴から読み取れる一つの見方として考えるのがよいでしょう。
五木寛之さんの妻というと、長年夫を支えてきた女性というイメージが先に立ちますが、実際の五木玲子さんは、文学部卒業後に医学部へ進み、精神科医として働き、その後は美術家として独自の作品世界を築いてきた人物です。夫の経歴だけではなく五木玲子さん自身の人生を追ってみると、かなり行動力のある女性だったことがわかりますよ。
妻の父親は岡良一|衆議院議員や金沢市長を務めた人物
五木寛之さんの妻である五木玲子さんの父親は、政治家や医師として活動した岡良一さんです。岡良一さんは単に政治家だったというだけではなく、衆議院議員を長年務めた後に金沢市長となり、文化や福祉を重視した街づくりを進めた人物として知られています。五木寛之さんとの関係で名前を知った人も多いかもしれませんが、金沢の歴史をたどると非常に存在感の大きな人物なんですよ。
岡良一さんは1905年2月14日に生まれ、1994年5月16日に亡くなりました。石川県立図書館の人物資料では、医学博士であり、金沢市名誉市民、さらに泉鏡花文学賞の創設者として紹介されています。 五木玲子さんは岡良一さんの三女として1934年に石川県金沢市で生まれたことが公的なレファレンス資料でも確認されています。
岡良一さんの経歴で特に注目したいのが、医療と政治の両方に深く関わっていたことです。五木玲子さんも医師免許を取得して精神科の医療現場で働いていますから、父親と娘がともに医学の道を歩んだことになります。五木玲子さんが文学部卒業後にあらためて医学部へ進んだ背景について本人が詳しく語った資料は限られていますが、父親である岡良一さんが医学博士だったことを考えると、医療が身近な環境で育ったことは五木玲子さんの進路を考えるうえでも興味深いポイントかなと思います。
政治家としての岡良一さんも長い経歴を持っています。インプットした資料によると、1943年の衆議院選挙で当選し、その後6期にわたって衆議院議員を務めました。そして1972年から1978年まで2期6年間、金沢市長を務めています。 金沢市公式サイトでも、岡良一さんが石川県議会議員、金沢市議会議員、衆議院議員、金沢市長を歴任し、1972年から6年間にわたって市長を務めたことが紹介されています。
市長時代には、公共下水道の整備や福祉施設の充実といった生活に直結する政策だけでなく、緑の都市宣言や文化政策にも力を入れました。なかでも現在まで名前が残る大きな功績が、泉鏡花文学賞の制定です。金沢市の公式資料は、岡良一さんが市長時代に泉鏡花文学賞の制定などを通じ、教育と文化を重視した街づくりを推進したと紹介しています。 石川県立図書館でも岡良一さんを泉鏡花文学賞の創設者と位置づけています。
ここで五木寛之さんとのつながりも出てきます。岡良一さんにとって五木寛之さんは娘である五木玲子さんの夫、つまり娘婿にあたります。そして五木寛之さんは泉鏡花文学賞の創設当初から選考に関わってきました。文学者である五木寛之さんと、市長として文化政策を進めた岡良一さんとの関係は、家族という枠だけに収まらず、金沢の文学文化にもつながっていったわけです。
五木寛之さん自身も金沢と非常に深い縁があります。1965年に五木玲子さんと結婚した後、ソ連や北欧への旅から帰国すると金沢に住み、小説執筆へ本格的に向かっていきました。五木玲子さんの実家が金沢にあったことも、夫婦と金沢との結びつきを考えるうえで見逃せないポイントです。 五木寛之さんにとって金沢は、妻の故郷であるだけでなく、作家として飛躍していく重要な時期を過ごした土地でもありました。
岡良一さんは1987年に金沢市名誉市民となっています。金沢市が公開する名誉市民の紹介では、市長として新長期計画を策定し、下水道、福祉、緑化、教育、文化など幅広い分野で街づくりを進めた功績が記されています。 政治家というと選挙や政党活動に目が向きがちですが、岡良一さんの場合は医学博士としての経歴を持ち、国政を経験した後、地元金沢の行政と文化の発展にも力を注いだ人物だったんですね。
五木玲子さんが医師から美術家へと進み、五木寛之さんが文学者として長く活躍し、父親の岡良一さんが文化を重視する金沢市長だったことを並べてみると、この家族が医学・文学・美術・行政と幅広い分野に関わってきたことがわかります。五木寛之さんの妻について調べる際には、五木玲子さん本人だけでなく父親の岡良一さんまで知っておくと、五木寛之さんと金沢の深い関係や、五木玲子さんが育った環境もより立体的に見えてきますよ。
五木寛之と妻・五木玲子の馴れ初めや結婚生活は?子供や夫婦関係も解説
- 妻との馴れ初めは早稲田大学|学生時代から交際していた二人
- 妻とは1965年に結婚|入籍後にソ連や北欧を旅した夫婦の歩み
- 妻との夫婦仲は?長年にわたり作家活動を支えた関係を紹介
- 妻は53歳から本格的に絵を開始|裸婦デッサンが転機に
- 妻は夫の著書の装画も担当|大河の一滴などを彩った作品
- 妻との間に子供はいる?子供を持たない夫婦と著書に込めた思い
妻との馴れ初めは早稲田大学|学生時代から交際していた二人
五木寛之さんと妻の五木玲子さんの馴れ初めは、二人が若き日に通っていた早稲田大学にさかのぼります。長年連れ添ってきた二人がどこで出会ったのか、ここは気になりますよね。インプットした資料では、二人はともに早稲田大学文学部に在籍していた時期に知り合い、その後、1965年に結婚したとされています。五木寛之さんがまだ人気作家として世に出る前からの付き合いだった点が大きなポイントです。
五木寛之さんは1952年に早稲田大学第一文学部のロシア文学科へ進学しました。一方の五木玲子さんも早稲田大学文学部で学び、卒業後には東邦大学医学部へ進んでいます。つまり二人が出会ったのは、五木寛之さんが『青春の門』や『大河の一滴』などの著者として全国的に知られるずっと前の学生時代だったわけです。兵庫県立美術館の文学館資料でも、五木寛之さんが1952年に早稲田大学文学部露文科へ入学した経歴が確認できます。
当時の五木寛之さんは、決して経済的に恵まれた学生ではありませんでした。大学生活を送りながらさまざまな仕事を経験し、最終的には学費の問題もあって大学を卒業せず、その後は業界紙の編集やラジオ番組制作、CMソングの作詞、放送台本の執筆など幅広い仕事に携わっていきます。現在の大作家という姿から想像すると、かなり下積みの長い青年時代だったんですね。
一方、五木玲子さんは早稲田大学文学部を卒業したあと、さらに東邦大学医学部へ進学し、医師の道を選びました。後に精神科医として勤務しているため、二人は学生時代に出会ったあと、それぞれまったく違う分野で人生を進めていたことになります。五木玲子さんは文学から医学へ、五木寛之さんは文学を志しながら編集や放送、作詞の世界へ進んでいったわけです。2019年に開かれた五木玲子さんの個展を紹介した記事でも、五木玲子さんが早稲田大学文学部と東邦大学医学部を卒業し、1965年に五木寛之さんと結婚した経歴が紹介されています。
二人がいつ正式に恋人同士になったのか、最初のデートがどこだったのか、五木寛之さんがどのようにプロポーズしたのかといった細かな恋愛エピソードまでは、広く確認できる資料には残されていません。ただ、学生時代に知り合い、1965年の結婚まで関係が続いていたことから、一時的な出会いではなく、若い頃から長い時間をかけて信頼関係を築いていった二人だったと考えられます。
五木寛之さんと五木玲子さんの関係を考えるときに興味深いのは、結婚時点ではまだ夫だけが圧倒的に有名だったわけではない点です。五木寛之さんが『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞を受賞して本格的に作家として脚光を浴びるのは1966年です。つまり結婚した1965年は、その前年になります。兵庫県立美術館の文学館資料でも、1965年のソ連・北欧旅行を経て、翌1966年に『さらばモスクワ愚連隊』で新人賞を受賞した流れが確認できます。
ここは二人の馴れ初めを見るうえで重要ですよ。五木玲子さんは有名作家になった五木寛之さんと出会って結婚したのではなく、将来どうなるかわからない青年時代から五木寛之さんを知っていたことになります。しかも五木玲子さん自身も医学部へ進み、精神科医として仕事を持つ女性でした。夫の成功だけに人生を委ねるのではなく、それぞれが自分の進む道を持っていた夫婦だったと見ることができます。
また、五木玲子さんは後年、美術家として五木寛之さんの著書の装画やイラストを数多く手がけました。若い頃は同じ早稲田大学で文学に接し、結婚後は医師と作家として活動し、さらに人生後半には作家と美術家という形で一つの本づくりにも関わっていきます。学生時代の出会いが何十年も後の創作上のパートナーシップにつながっていったと考えると、なかなか印象的ですよね。
五木寛之さんと五木玲子さんの馴れ初めには、芸能人夫婦のような派手な交際報道やドラマチックなプロポーズ話が残されているわけではありません。ただ、早稲田大学時代に出会い、五木寛之さんがまだ作家として成功する以前から関係を育み、やがて1965年に結婚したという流れがあります。華やかなエピソード以上に、若い頃から長い時間を共有してきたことそのものが、二人の関係を物語っているのかなと思います。
妻とは1965年に結婚|入籍後にソ連や北欧を旅した夫婦の歩み
五木寛之さんと妻の五木玲子さんは1965年に結婚しています。そして二人の結婚当初を語るうえで欠かせないのが、同じ1965年に行われたソ連や北欧への旅です。現在の五木寛之さんからは日本を代表する文学者という印象が強いですが、結婚した頃はまだ小説家として本格的にデビューする直前でした。新婚期と作家人生の出発点がほぼ重なっているところが、この夫婦の歩みの面白いところですよ。
五木玲子さんは1934年生まれで、五木寛之さんより2歳年下です。早稲田大学時代に知り合った二人は1965年に結婚しました。五木玲子さんは当時、医学の道へ進んで精神科医として勤務していた時期にあたります。インプットした資料でも、1965年の結婚後、五木玲子さんが精神科医として数年間病院に勤務していたことが確認できます。
一方、五木寛之さんにとって1965年は人生の大きな転換点となった年でした。二人は結婚後、ソビエト連邦や北欧などを旅しています。当時の旅については後年も五木寛之さんの重要な体験として扱われており、金沢文芸館の金沢五木寛之文庫では、2022年の展示リニューアルで五木寛之さんの1965年のソ連・北欧への旅を一つのテーマとして取り上げ、書籍、写真、生原稿、解説パネルなどを展示しています。
1965年という時代を考えると、現在のように海外旅行が気軽なものだったわけではありません。特に当時のソ連は東西冷戦の最中で、日本から自由に何度も訪れるような場所ではありませんでした。その土地を実際に訪れた経験は、ロシア文学を学んでいた五木寛之さんにとって大きな刺激になったと考えられます。
五木寛之さんには、ソ連という国に対する複雑な思いもありました。少年時代を朝鮮半島で過ごし、終戦後の混乱を体験している一方、青年期にはロシア文学に強く惹かれて早稲田大学のロシア文学科へ進んでいます。そんな五木寛之さんが30代になって実際にソ連を旅したわけですから、単なる観光旅行とはかなり意味合いが違っていたでしょう。兵庫県立美術館の文学館資料でも、1965年にソ連や北欧を旅行し、その翌年から本格的な作家活動へ入った流れが紹介されています。
そして帰国後、五木寛之さん夫妻は金沢と深く結びついていきます。1965年8月にソ連・北欧の旅から帰国した五木寛之さんは、その後金沢で暮らすようになりました。五木玲子さんの故郷が金沢であり、父親の岡良一さんも金沢を拠点として活動していたため、妻側の家族とのつながりもある土地でした。ただし、五木寛之さん自身は金沢を選んだ背景について、東京とは異なる古い日本の雰囲気を持った街に住みたいという思いもあったと後に記しています。
当時の五木玲子さんは福井県内の精神科病院に勤務し、週末に列車で金沢へ戻っていたとする記録もあります。 つまり結婚した直後から、二人が常に家で一緒に過ごしていたという単純な新婚生活ではなかったようです。五木玲子さんは医師として勤務し、五木寛之さんは金沢を拠点に新しい人生を模索していたわけですね。それぞれが仕事を持ちながら夫婦として生活を築いていた様子がうかがえます。
そして1966年、五木寛之さんに大きな転機が訪れます。『さらばモスクワ愚連隊』で第6回小説現代新人賞を受賞し、作家として本格的なデビューを果たしました。翌1967年には『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞します。金沢文芸館も、五木寛之さんが1966年に金沢在住中に『さらばモスクワ愚連隊』でデビューし、翌年直木賞を受賞した経歴を紹介しています。
こうして時系列で並べると、1965年の出来事が五木寛之さん夫妻にとってどれほど濃密だったのかがわかります。学生時代から付き合ってきた五木玲子さんと結婚し、ソ連や北欧を旅し、帰国後は金沢で新たな生活を始め、翌年には作家として世に出ることになりました。人生のパートナーとの結婚と、文学者としてのスタートがほぼ同じ時期に重なっていたんですね。
その後、五木玲子さんは精神科医としての仕事を経験したのち、美術の世界へ進みます。50代から本格的にデッサンを始め、リトグラフや銅版画、木版画などを制作し、五木寛之さんの著書の装画も数多く担当するようになりました。2019年の個展では、五木玲子さんが手がけた五木寛之さんの装画本約60点も展示されています。
結婚当初は作家志望の夫と精神科医の妻だった二人が、年月を経て作家と美術家として同じ書籍に関わるようになったわけです。1965年の結婚と海外旅行は、単なる夫婦の思い出というだけではなく、その後60年以上に及ぶ二人の人生や創作活動の出発点でもありました。五木寛之さんと五木玲子さんの夫婦関係を知るうえでは、この1965年という一年がとても重要な節目だったといえそうです。
妻との夫婦仲は?長年にわたり作家活動を支えた関係を紹介
五木寛之さんと妻の五木玲子さんは、1965年に結婚してから長い年月を夫婦として歩んできました。これだけ長く連れ添っていると、実際の夫婦仲はどうだったのか気になりますよね。ただ、五木寛之さんはインタビューなどで五木玲子さんとの私生活について多くを語るタイプではなく、夫婦の日常や家庭内でのやり取りが詳しく公開されているわけではありません。インプットした資料でも、夫婦仲そのものについて具体的に語った情報は少ない一方、五木玲子さんが五木寛之さんの書籍の装画を数多く担当していることから、長年にわたって仕事の面でも深いつながりを持ってきた様子がうかがえます。
二人の関係を知るうえで重要なのが、五木玲子さんが単に家庭で夫を支えていただけの存在ではないという点です。五木玲子さん自身、早稲田大学文学部を卒業した後に東邦大学医学部へ進み、医師免許を取得しています。結婚後も数年間は精神科の病院で勤務しており、その後は五木寛之さんの作家活動を支えながら、自らも美術の世界へ進んでいきました。
特に印象的なのが、夫婦の関係が創作を通じても続いていったことです。五木玲子さんは1981年に五木寛之さんの豆本『風に吹かれて』の装幀を担当し、1984年には日刊ゲンダイで連載された『流されゆく日々』のカットを担当しました。その後も1994年には『生きるヒント』のイラスト、1995年には『こころ・と・からだ』のイラストを手がけています。さらに『大河の一滴』や『運命の足音』など、五木寛之さんの代表的な著作にも美術面から関わってきました。
これは一般的な作家夫婦とは少し違う関係かもしれません。五木寛之さんが文章で作品世界を構築し、五木玲子さんが絵や装画によってその世界に視覚的な表情を与える。夫婦でありながら、作家と美術家というそれぞれの立場から一冊の本に関わっていたわけです。
2001年からは五木寛之さんの『日本人のこころ』全8巻の装画も五木玲子さんが担当しています。また、資料によって冊数に多少の違いはありますが、五木寛之さんの著書を中心に約40冊の装画を担当したとする記録も確認できます。 ここまで長期間にわたって夫の著作に関わっていることを考えると、単に夫婦として一緒に生活していただけではなく、お互いの仕事や感性を理解した関係だった可能性が高そうです。
さらに、二人には子供がいないとされています。五木寛之さんは、自分が書いた本を息子や娘のような存在として捉える趣旨の発言をしており、五木玲子さんもその多くの本に装画という形で関わってきました。 夫が生み出した文章と妻が生み出した絵が一冊の本の中で組み合わされてきたことを考えると、二人にとって本づくりそのものが夫婦共通の大切な営みだったのかもしれませんね。
もちろん、装画を担当していたから夫婦喧嘩がなかった、常に仲が良かったとまで断定することはできません。長い結婚生活ですから、意見が合わない時期や距離を置きたくなる場面があった可能性もあるでしょう。ただ、公に確認できる範囲では大きな夫婦トラブルや離婚に関する情報は見当たらず、むしろ何十年にもわたって作品を通じた協力関係が続いています。
五木寛之さんが妻との生活を積極的に語ってこなかったからこそ、華やかな夫婦エピソードは多くありません。それでも、1965年の結婚から長く人生を共にし、精神科医としての仕事を持っていた五木玲子さんがやがて美術家となり、五木寛之さんの作品を絵で支えていった事実を見ると、二人は互いの世界を尊重しながら歩んできた夫婦だったのではないかなと思います。
妻は53歳から本格的に絵を開始|裸婦デッサンが転機に
五木寛之さんの妻である五木玲子さんが本格的に絵の世界へ踏み出したのは、なんと53歳になってからです。若い頃から美術大学で学んだ画家ではなく、文学と医学を学び、精神科医として働いた経験を持つ女性が50代で絵を始めたという経歴はかなり珍しいですよね。ここは五木玲子さんの人生を知るうえで、とても重要な転機です。
資料によると、五木玲子さんは53歳のときにカルチャーセンターの裸婦デッサン教室へ入り、そこで初めて裸婦を描きました。五木玲子さんの自筆略年譜をもとにした資料でも、53歳からデッサンを始め、その後はパステル画、イラストレーション、リトグラフ、銅版画、木版画、石版画などへ制作分野を広げていったとされています。
資料によって裸婦デッサンを始めた年には1987年または1988年という表記の違いがありますが、53歳前後だったという点は共通しています。1987年に53歳でカルチャーセンターの裸婦デッサン教室へ入ったとする記録がある一方、別の作家プロフィールでは1988年に裸婦デッサン教室へ入り、初めて裸婦を描いたとされています。 年については資料ごとの差を踏まえ、53歳ごろが本格的なスタートだったと理解するとよいでしょう。
それまでの五木玲子さんは、早稲田大学文学部を卒業した後に東邦大学医学部へ進み、医師免許を取得して精神科の病院で働いていました。つまり、50代までの人生の中心にあったのは医学です。そこからカルチャーセンターで裸婦を描いた経験をきっかけに、人生後半の大きな柱となる美術へ踏み出したわけですね。
最初はデッサンでしたが、活動はそこで止まりませんでした。裸婦を描いたことをきっかけにパステル画にも取り組み、雑誌の連載でイラストレーションを担当するようになります。1994年には五木寛之さんの『生きるヒント』、1995年には『こころ・と・からだ』の連載イラストを担当するなど、次第に五木玲子さんの絵が仕事として世に出るようになりました。
そして1996年には東京のPIGA原宿画廊で初個展を開催します。53歳ごろに本格的なデッサンを始めてから約10年で、自分の作品をまとめて発表する美術家になったわけです。さらに1998年ごろ、64歳になると横浜の版画工房でリトグラフを中心に銅版画や木版画にも取り組み、2007年の73歳ごろからは石版画へと表現方法を広げていきました。
五木玲子さんの作品では、人物だけでなく花も重要な題材となっています。特に枯れた花や枯れかけた花を描くことがあり、作品紹介では老いや死を真正面から見つめながら、生命の根源を強い線で表現しようとする作風が紹介されています。鉛筆、パステル、銅版画、リトグラフ、木版画など技法が変わっても、対象の奥深くに入り込み、生命そのものを線によって表現しようとする姿勢は一貫していたとされています。
精神科医として人間の心に向き合ってきた経験と、こうした作品のテーマに直接的な関係があると本人が説明しているわけではありません。ただ、人間や生命、老い、生と死といったテーマを正面から見つめる作品が多いことを考えると、五木玲子さんがそれまで生きてきた経験の積み重ねが創作に何らかの形で表れていると感じる人もいるかもしれません。
その後も『花の見た夢』や『風の見た夢』といった画文集に関わり、東京、大阪、金沢、横浜、長野など各地で個展を開催しました。2011年には画集『天の花 地の花』も刊行されています。 53歳から始めた趣味が少しずつ広がったというレベルではなく、何十年も制作を続け、展覧会や画集出版へと発展していった本格的な創作人生だったことがわかります。
20代でも30代でもなく、53歳から新しい道へ進んだ五木玲子さん。裸婦デッサン教室への参加という小さな一歩が、その後の数十年間にわたる美術家としての人生につながりました。年齢を重ねてからでも、新しい分野に踏み出すことで人生が大きく変わることを示すような歩みでもあります。五木寛之さんの妻という枠だけではなく、50代から自分の表現を見つけて成長を続けた一人の美術家として見ると、五木玲子さんの魅力がより伝わってくるかなと思います。
妻は夫の著書の装画も担当|大河の一滴などを彩った作品
五木寛之さんの妻である五木玲子さんは、美術家として自分自身の作品を制作するだけでなく、夫である五木寛之さんの著書の装画やイラストも数多く手がけてきました。五木寛之さんの本を読んだことがある人でも、表紙の絵を妻の五木玲子さんが描いていたと知らなかった人は多いかもしれません。ここ、意外と知られていないポイントですよね。
五木玲子さんが夫の仕事に美術面から関わり始めたのは、かなり早い時期です。資料によると、1981年には五木寛之さんの豆本『風に吹かれて』の装幀を担当し、1984年には日刊ゲンダイで連載されていた『流されゆく日々』のカットも担当しています。その後、1994年には雑誌で連載された『生きるヒント』、1995年には『こころ・と・からだ』のイラストレーションを手がけるなど、夫の文章と妻の絵が一つの作品の中で組み合わされる機会が増えていきました。
特に知られているのが、『大河の一滴』をはじめとする五木寛之さんの著書の装画です。五木玲子さんは『大河の一滴』だけでなく、『運命の足音』、英文版『TARIKI』、復刻版『風に吹かれて』などにも関わり、さらに2001年からは講談社から刊行された『日本人のこころ』全8巻の装画も担当しました。
五木玲子さんの自筆略年譜をもとにした資料では、五木寛之さんの著書を中心に約40冊の書籍で装画を担当したとされています。 一方、2019年に丸善・丸の内本店で開催された五木玲子さんの個展では、五木玲子さんが手がけた装画本がおよそ60点展示されたと紹介されています。 冊数と展示点数では数え方が異なる可能性がありますが、長年にわたり数多くの書籍に関わってきたことは間違いなさそうです。
面白いのは、五木玲子さんが最初から職業画家として夫の本を担当していたわけではないことです。もともとは早稲田大学文学部、東邦大学医学部で学び、精神科医として勤務していました。その後、53歳ごろから裸婦デッサンを本格的に始め、パステル画や版画へと活動を広げていきます。つまり、結婚当初は作家と医師だった夫婦が、年月を経て作家と美術家という形でも協力するようになったわけですね。
五木玲子さんの作品には、人物だけでなく花も数多く登場します。特に枯れた花や枯れかけた花を題材とし、老いや死、生きることそのものを強い線で表そうとする作風が紹介されています。鉛筆やパステル、銅版画、リトグラフ、木版画など技法が変化しても、対象の生命を深く見つめようとする姿勢が作品の特徴とされています。
五木寛之さん自身も『大河の一滴』や『生きるヒント』などで、生きること、老いること、死と向き合うことを長年テーマとしてきました。そのため、生命や老いを描いてきた五木玲子さんの作品と五木寛之さんの文章には、結果的に響き合う部分があったのかもしれません。二人が作品のテーマについてどのような話し合いをしていたのかまでは詳しく公表されていませんが、夫の文章と妻の絵が一冊の本の中で自然に共存してきたことからも、互いの表現を理解し合う関係だったことがうかがえます。
一般的に装画は、本を手に取った読者が最初に目にする大切な要素です。本文を読む前に、その本の雰囲気や世界観を視覚的に伝える役割があります。五木寛之さんが文章を書き、五木玲子さんが装画を担当するという共同作業は、単に夫の仕事を妻がお手伝いするというものではありません。文章と絵という異なる表現方法を持つ二人が、それぞれの専門性を生かして一つの作品を作っていたと考えるほうが自然でしょう。
53歳ごろから本格的に絵を始めた五木玲子さんが、その後何十年にもわたって制作を続け、五木寛之さんの代表作を絵で彩ってきたことを考えると、夫婦の関係と創作活動が深く結びついていたことがわかります。五木寛之さんの本をこれから手に取る機会があれば、本文だけでなく表紙や装画にも注目すると、妻の五木玲子さんとの長い創作上のつながりまで感じられるかもしれませんよ。
妻との間に子供はいる?子供を持たない夫婦と著書に込めた思い
五木寛之さんと妻の五木玲子さんの間に子供がいるのか、気になる人も多いようです。結婚から長い年月を一緒に過ごしてきた夫婦なので、息子さんや娘さんがいると思っていた人もいるかもしれませんね。インプットした資料によると、五木寛之さんと五木玲子さんの間に子供はいないとされています。
二人は1965年に結婚しました。五木寛之さんが作家として本格的にデビューする前年で、妻の五木玲子さんは精神科医として仕事をしていた時期です。その後、五木寛之さんは『さらばモスクワ愚連隊』で作家デビューし、『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞を受賞、『青春の門』『大河の一滴』など数々の作品を発表していきました。一方の五木玲子さんも精神科医として勤務した後、50代から美術家として活動するようになります。
二人がなぜ子供を持たなかったのかについて、五木寛之さん本人が具体的な理由を詳しく語った記録は、インプットした資料では確認されていません。仕事を優先したのか、夫婦で話し合って決めたのか、あるいは別の事情があったのかについて推測する情報もありますが、家族に関する非常に個人的な部分なので、根拠のない理由を断定してしまうのは避けたいところです。
ただし、五木寛之さんは子供について非常に印象的な考え方を語っています。資料では、自分には子供はいないものの、自分が書いた本を息子や娘のような存在だと考えている趣旨の発言をしたと紹介されています。
この言葉を知ると、五木寛之さんが著書にどれほど強い思いを持ってきたのかが伝わってきますよね。作家にとって本は、自分の考えや経験、人生観を長い時間をかけて形にしたものです。出版された後は作者の手を離れ、多くの読者のもとへ渡っていきます。そう考えると、自分が生み出した本を子供のような存在と表現する感覚も理解しやすいのではないでしょうか。
さらに興味深いのは、その本づくりに妻の五木玲子さんも深く関わっていることです。五木玲子さんは五木寛之さんの著書を中心に約40冊の装画を担当したとする資料があり、『大河の一滴』『運命の足音』『日本人のこころ』など、夫の代表的な作品を絵で彩ってきました。
つまり、五木寛之さんが本を自分の子供のような存在だと感じていたとすれば、その本の表紙や装画を妻の五木玲子さんが手がけてきたことには、どこか象徴的な意味も感じられます。五木寛之さんが文章を生み出し、五木玲子さんが絵を添えることで、一冊の作品が完成する。夫婦に実子はいなくても、二人がそれぞれの表現を持ち寄って多くの作品を世に送り出してきたわけです。
もちろん、五木寛之さんが本を子供にたとえたからといって、本が実際の子供の代わりだったと単純に解釈する必要はありません。子供を持つことと創作活動はまったく別のものですし、夫婦がどのような考えで家族の形を選んだのかは本人たちにしかわからない部分もあります。ここは必要以上に想像を広げず、五木寛之さん自身が著書を非常に大切な存在として捉えていたことに注目するのがよいでしょう。
二人の人生を振り返ると、一般的な家族像とは少し違う夫婦だったことも見えてきます。1965年の結婚後、五木寛之さんは作家として飛躍し、五木玲子さんは医師として働いた後に美術家へ転身しました。それぞれが独自の仕事を持ちながら、やがて本づくりでは夫婦で協力するようになります。
五木玲子さんは1981年には『風に吹かれて』の装幀、1984年には『流されゆく日々』のカットを担当し、その後も夫の著書や雑誌連載に多数関わりました。 2001年からは『日本人のこころ』全8巻の装画も担当しています。 長い結婚生活の中で、作家と美術家として一緒に作品を生み出してきたことが二人らしい夫婦の形だったのかなと思います。
五木寛之さんと五木玲子さんには子供はいませんが、それだけで二人の家庭や人生を語ることはできません。二人は長年それぞれの仕事に向き合い、文学と美術という異なる分野で表現を続けながら、ときには一冊の本を一緒に作ってきました。そして五木寛之さんが自分の本を息子や娘のような存在として捉えていたというエピソードからも、創作物に注いできた特別な愛情が感じられます。子供の有無だけではなく、二人がどのようなものを生み出し、残してきたのかまで見ていくと、五木寛之さん夫妻の関係がより深く理解できますよ。
五木寛之の妻・五木玲子さんについて総括
- 五木寛之さんの妻は1934年に石川県金沢市で生まれた五木玲子さんである
- 五木玲子さんは早稲田大学文学部を卒業後、東邦大学医学部で医学を学んだ異色の経歴の持ち主である
- 五木玲子さんは医師免許を取得し、精神科の病院で勤務した経験がある
- 五木玲子さんの父親は衆議院議員や金沢市長を務めた岡良一さんである
- 五木寛之さんと五木玲子さんは早稲田大学時代に知り合ったとされている
- 五木寛之さんと五木玲子さんは五木寛之さんが作家として本格デビューする前年の1965年に結婚した
- 結婚後の二人はソ連や北欧を旅し、帰国後は金沢と深い関わりを持って生活した
- 五木玲子さんは結婚後も精神科医として働き、自分自身の仕事を持ち続けていた
- 五木玲子さんは53歳ごろに裸婦デッサンを始めたことをきっかけに本格的な美術活動へ進んだ
- 五木玲子さんはパステル画やリトグラフ、銅版画、木版画、石版画など幅広い技法に取り組んだ
- 五木玲子さんは1996年に初個展を開き、その後も各地で個展や作品発表を続けた
- 五木玲子さんは大河の一滴や運命の足音、日本人のこころなど五木寛之さんの多くの著書で装画を担当した
- 五木寛之さんと五木玲子さんは作家と美術家という立場から長年にわたり創作面でも協力してきた夫婦である
- 五木寛之さんと五木玲子さんの間に子供はいないとされている
- 五木寛之さんは自らの著書を息子や娘のような存在として捉えており、その本を五木玲子さんの装画が彩ってきた
今回も最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。