今回は、作家の五木寛之さんについてご紹介します。
80歳を越した今も現役の作家として活動を続けている五木寛之さんには子供はいないのですが、精神科医で美術家の嫁岡玲子さんと仲睦まじく暮らしています。奥さんとの馴れ初めが凄いということなのですが、果たしてその詳細は。
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五木寛之と妻に子供はいないけど子供がいる
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五木寛之さんが結婚したのは1965年、33歳のときでしたが、嫁である岡玲子さんとの間に子供はいません。
子供がいないというのは紛れもない事実なのですが、五木寛之さんは常々、マスコミのインタビューや対談で、自分には子供はいないが、自分が書いた本が息子・娘だと思っていると語っています。ですので、内容に関してはもちろんのこと、世に送り出す本の表紙や帯にまで非常に細かい配慮を常に欠かさないようにしているそうです。
また、五木寛之さんはかねてから、作曲家の佐村河内守さんを実の息子のように可愛がっていて、2014年2月にゴーストライター問題が発覚する以前からの仲です。
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五木寛之さんは著書だけではなく、音楽作品の作詞や作曲も担当していますので、音楽の仕事を通じて佐村河内守さんと知り合った可能性が高いです。
いくつになっても自分の軸をしっかりと持ちながらも、決して時代に逆らうようなことをせずに最後までしっかり生きていきたいと語っています。これまでに手掛けた著書や楽曲は数えきれないほどあります。五木寛之さんが世に送り出した作品をじっくりと味わってみると、何か生きるヒントのようなものが得られるかもしれません。
五木寛之と嫁岡玲子に子供がいないのは母や弟との死別が原因
五木寛之さんの父親である松延信蔵さんと母親である松延カシエさんは共に教員で、五木寛之さんが誕生して間もなくして朝鮮半島に渡りました。当時の朝鮮半島は日本の統治下にあり、父親の仕事の関係で全羅道、京城など朝鮮各地を転々としていました。
1945年、五木寛之さんが12歳のときに太平洋戦争の末に日本が敗戦国となったことで、五木寛之さんを取り巻く環境ががらっと変わってしまいました。
ある日、大勢のソ連兵が自宅に踏み込んできて、父親は銃を突きつけられて裸で壁際に立たされます。一方の母親は体調が優れなかったため布団で横になっていたのですが、そんな母親に対して別のソ連兵が布団をはぎ、履いていたブーツの先で浴衣の襟元をはだけて母親の胸を踏みつけました。その結果母親の口からは血があふれ、元々体調を崩していたということも重なり、その翌月に41歳の若さで亡くなりました。
その2年後に父親と弟と妹とともに日本(福岡県)に帰郷し、4人で暮らす日々がスタートしました。特に弟の邦之さんは、五木寛之さんよりも7歳年下ということで、弟というよりも自分の子供に似た感覚もあったのでしょう、弟のために生活費を稼ぐべく様々な仕事をして生活を支えていました。
一方で弟の邦之さんは、五木寛之さんが作家になる以前から共に苦労をしてきましたし、作家になった後も五木寛之さんの右腕としてサポートしてきてくれていました。
そんな最愛の弟さんが亡くなったのは1981年、42歳という若さでした。弟さんに対する思いから、五木寛之さんは法隆寺を見下ろすことができる丘に石碑を建て、そこに母親の遺髪や父親の遺骨も納められています。
戦争という人類史上最悪な出来事に遭遇し、とても辛い体験をした五木寛之さんは、本当に不幸なのは戦争が終わった後も日本に引き揚げてくることができなかった人たちであり、生きて帰ってくることができた自分は、そのような人たちに対する後ろめたさがあったそうです。
若くして亡くなった母親と弟に対する思いに加えて、戦争が終わったにもかかわらず日本に帰ってくることができなかった人たちに対する思いも重なり、ご自身の体験や辛い思いを後世に伝えるべく、作品という形で表現し続けることが自分の役割だと認識したのだと思われます。
五木寛之さんには長い作家人生の中で、2度の休筆期間があります。特に2度目の旧筆期間中は、京都の龍谷大学の聴講生となり仏教を学んでいますので、仏教を通じて生きることや命について思うところがあったのでしょう。
五木寛之と嫁岡玲子に子供がいないのは傍系血族だから
五木寛之さんと奥さんは親戚関係にあります。親戚と言っても近い親戚から遠い親戚まで様々ですが、2人は四親等以降の傍系血族です。遺伝子的には親戚同士で結婚をすると生まれてくる子供に何らかの特徴が出てくるとも言われています。ですが、元々五木寛之さんと奥さんに血のつながりは全くありませんので、2人の間に子供がいないのは親戚関係であることが原因ではないと言えます。
また、五木寛之さんは学生時代からずっと著作活動を継続していますし、一方の岡玲子さんも後ほど詳しくご紹介するように、医師兼画家として忙しく活動し続けてきましたので、お互いの仕事を優先して子供を作らなかったという可能性もあります。
五木寛之さんご自身のことではないのですが、かつて五木寛之さんと村上春樹さんが作家対談を行った際に、村上春樹さんが子供を作らない理由は作品輩出に専念したいからだ語っていましたので、五木寛之さんも前述のように、自らが手掛ける作品という子供を優先したのかもしれません。
さて、そんな五木寛之さんの奥さんである岡玲子さんとはどのような方なのでしょうか、そして馴れ初めは何だったのでしょうか。
五木寛之の嫁は精神科医で美術家の岡玲子!馴れ初めは学生時代
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五木寛之さんは33歳のとき(1965年)に、精神科医で美術家の岡玲子さんと結婚しました。年齢は五木寛之さんよりも2歳年下で、馴れ初めは早稲田大学の学生時代でした、2人とも早稲田大学文学部ですので、同じ学部の先輩と後輩の間柄でした。
岡玲子さんは1934年に石川県金沢市に生まれ、早稲田大学文学部を卒業した後に、東邦大学医学部を卒業し、1965年(31歳の頃)から精神科医として病院に勤務していました。
五木寛之さんの旧姓は「松延」ですが、奥さんの親戚にあたる五木家に子供がおらず跡取りがいなかったため、五木寛之さんが五木姓を名乗ることになりました。
奥さんの旧姓は「岡」で、父親は石川県選出の衆議院議員でした。先ほどもお伝えした通り、五木家と岡家は親戚関係にあります。ただし、四親等以降の傍系血族ですので、民法上五木寛之さんと岡玲子さんは結婚することができました。
31歳の頃から病院勤務の精神科医として働きながら、趣味の絵画にも積極的に取り組んでいたのですが、53歳のときにとあるカルチャーセンターの裸婦デッサン教室に参加したことがきっかけで、パステル画を描くようになりました。もうすでにこの時点で趣味の域を脱していて、絵画に関する雑誌の連載を担当するようにもなりました。連載雑誌のイラストレーションなどを手がけつつ、その他にもリトグラフを中心として、銅版画や木版画や石版画なども制作しています。
また、約40冊もの書籍の装画の担当していて、その40冊の書籍の中には五木寛之さんの著書も多数含まれています。画集も発売していて、作品名は『天の花 地の花』です。絵画や美術に興味がある方には是非一度手に取っていただきたい力作となっています。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。