出典:eiga.com
今回は、女優の岸恵子さんについてご紹介します。
岸惠子さんと夫イヴ・シャンピさんは浮気が原因で離婚しています。離婚理由は、浮気をしているとの背徳感よりも自分自身の我儘が勝ってしまったということなのですが、背徳感よりも我儘が勝ってしまった背景と娘さんについて詳しく調べてるとともに、離婚後から現在に至るまでの経緯についてもまとめてみました。
Contents
岸惠子と夫イヴ・シャンピは浮気が原因で離婚した
出典:ameblo.jp
岸恵子さんが結婚したのは1957年で、当時の年齢は25歳でした。結婚相手はフランス人映画監督で医師でもあったイヴ・シャンピさんです。
イヴ・シャンピさんは岸恵子さんの11歳年上で、馴れ初め・出会いは1956年9月に公開された日本・フランス合作の恋愛映画『忘れえぬ慕情』でした。岸恵子さんは主演を務め、イヴ・シャンピさんが監督を務めた映画でした。
映画が公開された翌年には結婚していますので、交際期間は1年程度だったのですが、岸恵子さんがイヴ・シャンピさんとの交際を決断した理由は、これまでスタッフや共演者から大スターとして扱われていたのに対して、イヴ・シャンピさんは1人の女性として扱い接してくれたことでした。
自分のことを尊重してくれるイヴ・シャンピさんには、出会った当初からどこか魅かれるものを感じていたそうで、一緒に仕事をしていくうちにどんどんイヴ・シャンピさんの魅力に吸い込まれていったそうです。その当時の心境を岸恵子さんは、心に春風が入ってきたという言葉で表現していました。
そして岸恵子さんがイヴ・シャンピさんとの結婚を決断した理由は、イヴ・シャンピさんから投げかけられた「あなたは好奇心が強い人だから日本だけにとどまっていてはいけない。僕がこれから色々な国に連れて行って様々な景色を見せてあげるから、それらを見たうえで日本が良いと思えば日本に帰ってくれば良い」という言葉を聞いたことでした。
出典:pinterest.jp
それでも戸惑いを隠せない岸恵子さんに対して、「あなたは自由な人間で、あなたの意志を阻むのはあなた自身だけだ」とも言ってくれたそうで、その言葉に感銘を受けて結婚を決断することができました。
結婚式はイヴ・シャンピさんの母国であるフランスで挙げ、立会人は小説家の川端康成さんが務めました。結婚式を挙げる前は日本に住んでいた岸恵子さんですが、結婚式を終えて以降はフランスに移住しました。
フランスに移住後も日本とフランスを行き来しながら女優業を継続させた一方で、イヴ・シャンピさんはこれまでと変わらず映画作りに奔走していましたので、家事や雑用はどうしていたのかという疑問が残りますが、イヴ・シャンピさんの両親は世界的に有名なピアニストとバイオリニストで、元から家には料理人やメイドがいたとのことで、家事や雑用は全てその人たちに完全に任せていたそうです。
フランスに移住してからの岸恵子さんは、女優としての魅力をより一層引き上げるためにフランス語の勉強と社交に力を入れつつ、イヴ・シャンピさんとともにフランス国内外の様々な場所を訪れて見聞を広めていました。
お互いのことを尊重し合いながら、フランスで仲睦まじく暮らしていた岸恵子さんとイヴ・シャンピさんではありましたが、結婚生活18年目の1975年に離婚してしまいました。離婚した当時の岸恵子さんの年齢は43歳でした。女優として一番と言っても過言ではないほど脂がのっている時期にどうして?と思いましたが、離婚原因はイヴ・シャンピさんの浮気でした。
岸惠子の夫イヴ・シャンピが浮気したのは背徳感よりも我儘が勝ったため
岸恵子さんという美人を奥さんに持ちながらイヴ・シャンピさんが別の女性と浮気をしてしまったのはどうしてなのでしょうか。岸恵子さんの著書である『ベラルーシの林檎』の中に、その答えが綴られていました。
日本で女優活動をしていたため、どうしてもフランスの家を不在にする期間が長くなりがちでした。その不在回数が少なければそうはならなかったのかもしれませんが、長期不在の回数が増えていくに連れてイヴ・シャンピさんの心の中には深い孤独感が生まれてしまったのだということです。
離婚した当初は、浮気相手の女性を憎く思ったりすることもあったそうですが、月日が経過していくうちに旦那さんが浮気に走ってしまったのは、背徳感よりも深い孤独を紛らすための我儘が勝ったからなのだとうと解釈するようになったそうです。
もちろん、浮気自体はどんな理由があれ許されることではないのですが、岸恵子さんは、妻子ある相手に近付き、自分の願望を叶えた行為こそが美であり善であったかもしれない、日本人が得意とする潔さを前面に出し、イヴ・シャンピさんからさっさと身を引いた私の方が苦労無しの腰砕けだったとも綴られていました。
岸惠子と夫イヴ・シャンピの娘は1人
出典:nikkei.com
岸恵子さんとイヴ・シャンピさんには子供が1人いて娘さんです。結婚してから6年後の1963年5月に生まれましたので、2024年時点での年齢は61歳です。
名前はデルフィーヌ=麻衣子・シャンピさんで、両親が離婚してからの親権は岸恵子さんが持っているものと思っていました。ところが、岸恵子さんがふと自分の戸籍を調べてみると、娘さんの名前が戸籍に記入されていないことが発覚したのです。
原因はその当時の日本の法律でした。岸恵子さんがイヴ・シャンピさんと結婚した1957年当時、日本の法律では娘さんは日本国籍を取得することができなかったそうです。その後法律は改正されたのですが、生後3カ月以内にパリの領事館に出生届を提出していなかったため、結局、娘さんは岸恵子さんの戸籍には入っていなかったということです。
実際に血のつながった親子であるため、親子関係やフランスでの日常の生活には一切支障をきたさなかったのですが、娘さんが日本に来るときにだけ不都合な事態に見舞われてきました。娘さんは日本国籍を有していないため、日本に来る際には毎回期限付きのビザを取得しなければならないのですが、風邪で体調を崩しビザが2日切れていたことがあった際には、入国審査官から、「次回同じことをすれば刑務所に入ることになる」と言われたことがありました。
日本のことが大好きだった娘さんもさすがに入国審査官のその一言は応えたそうで、岸恵子さんは娘さんの「日本は私の国ではないことが分かった」とのコメントを聞くのがとても辛かったそうです。
デルフィーヌ=麻衣子・シャンピさんはフランスの名門大学であるソルボンヌ大学を卒業した後、バンド活動を行い、現在はオーストラリア出身の作曲家ウォーレン・エリスさんと結婚し、子供が2人います。
岸恵子が夫イヴ・シャンピと離婚してから現在に至るまでの経緯
2019年5月に行われたインタビューで、岸恵子さんは、娘であるデルフィーヌ=麻衣子・シャンピさんが結婚したこととと実の母親が亡くなったことを機に、両親が遺した日本の家(神奈川県横浜市)でも暮らすようになり、パリにある家は主に事務所として活用していると語っていました。現在は日本とフランスを行き来しながら生活しているそうです。
岸恵子さんは若い頃から川端康成さんの大ファンで、川端康成さんの著書を愛読していました。元々は女優ではなく作家志望で、実際に何冊か著書を出版しています。初めて執筆したエッセイ『巴里の空はあかね雲』(1983年に出版)は文芸大賞エッセイ賞を受賞しました。
その後はエッセイ集を2冊出版していて、1993年10月に朝日新聞社から出版された『ベラルーシの林檎』で日本エッセイストクラブ賞を受賞しています。この本は娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピさんが表紙デザインを担当したことでも有名なエッセイです。
2019年5月に幻冬舎から発売されたエッセイ『孤独という道づれ』では、自身の人生を振り返り、現代に生きるあらゆる世代に向けたメッセージが込められています。
最近では女優業をセーブし、エッセイストとして活躍することが増えてきた岸恵子さんの今後の活動に引き続き注目していきたいと思います。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。