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今回は、女優の若尾文子さんについてご紹介します。
若い頃には草笛光子さんとともにユニット・スリーパールズを結成しファンを魅了していた若尾文子さん。夫の黒川紀章さんとは再婚であることが判明しました。離婚に応じようとしない前夫に慰謝料を払って強制離婚した過去があるとのことなのですが、果たしてその詳細とは。
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若尾文子と夫黒川紀章は再婚だった
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若尾文子さんが夫で建築家の黒川紀章さんと結婚したのは1984年12月のことだったのですが、実は若尾文子さんにとってみると黒川紀章さんとの結婚は再婚でした。結婚した当時の年齢は若尾文子さんが51歳、黒川紀章さんが50歳でした。
結婚するに際して芸能リポーターの前田忠明さんから単独インタビューを受けた際に、前田忠明さんがインタビュー中に何度も50歳という年齢を連呼した(インタビューを受けた当時の若尾文子さんの年齢は50歳)ため、それに対して怒りを覚えた若尾文子さんは、インタビュー途中で退席したことがありました。
ちなみに、若尾文子さんが再婚する前の旦那さん商業デザイナーの西舘宏幸さんなのですが、この件に関しては後ほど詳述します。
若尾文子さんと黒川紀章さんの出会いは、1976年にTBS系で放送されていたトーク番組兼ドキュメンタリー番組『すばらしき仲間』での対談でした。
番組での対談時の若尾文子さんの印象がとても良かったようで、対談した当日に黒川紀章さんは若尾文子さんの自宅住所をつきとめ、若尾文子さんの自宅にプレゼント用の絵画を持って訪問し、その勢いに押される形で交際がスタートしました。今であればストーカー行為で逮捕されてもおかしくないようなケースですが、黒川紀章さんの思い立ったら即行動に移すという強みが遺憾なく発揮された瞬間でした。
交際をスタートさせた後、ほどなくして若尾文子さんと黒川紀章さんは同棲生活をスタートさせたのですが、何とその当時、黒川紀章さんには妻子がいたため、すぐには結婚できない状態が続いていました。
最終的に若尾文子さんが黒川紀章さんと結婚することができたのは、同棲生活をスタートさせてから実に7年後のことでした。
交際がスタートしてから結婚に至るまでに長い年月を要した背景には、黒川紀章さんの元嫁が大きく関係していました。
若尾文子さんが黒川紀章さんと交際をスタートさせたとき、黒川紀章さんには妻子がいたのですが、黒川紀章さんが奥さんに対して離婚してほしいと考えてる旨を伝えたところ、奥さんからは、娘さんが20歳になるまでは離婚できない(したくない)という返答がありました。
その当時の娘さんの年齢は13歳でしたので、娘さんが20歳になるまでに7年というタイミングでした。そしてその後7年間は同棲生活を継続させ、娘さんが20歳になった時点で離婚が成立し、黒川紀章さんが若尾文子さんに対してプロポーズし、結婚に至ることができました。
ちなみに、プロポーズの言葉は”君はバロック美術のようだ”でした。バロック美術とは、躍動感にあふれていて、明暗の対比がはっきりと表現されている美術作品のことを指しています。
結婚した後、若尾文子さんは海外を転々とする黒川紀章さんに同行するため、ドラマや映画などの仕事をセーブし、舞台を中心に活動していました。しかし、黒川紀章さんが若尾文子さんに対して、若尾文子さんは国の宝であり、いくら夫と言えども独占することは許されないと伝え、2000年以降は別居生活を送っていました。若尾文子さんは東京の自宅で、黒川紀章さんはホテル暮らしだったのですが、携帯電話で毎日連絡を取り合い、若尾文子さんが毎朝手作り弁当をホテルに持参するなど、お互い気を遣い合い、円満な結婚生活を送っていました。
若尾文子には前夫に慰謝料を払って強制離婚した過去あり
若尾文子さんは黒川紀章さんと結婚する前に、商業デザイナーの西舘宏幸さんと結婚していました。結婚したのは1963年で、その当時の若尾文子さんの年齢は32歳でした。
1959年にドイツ・ミュンヘンで開催された国際映画祭に出席するためにヨーロッパを訪問していた若尾文子さんがたまたまパリに立ち寄った際に、現地でガイド役を務めていたのが西舘宏幸さんでした。その当時の西舘宏幸さんは、東京大学文学部を卒業した後商業デザイナーになるためにパリで様々なことを学んでいる最中でした。
現地ガイドと旅行者という関係でしたから、当然出会った当初は挨拶を交わした程度だったのですが、その後日本に帰国した若尾文子さんがふと思い立って西舘宏幸さんに手紙を書いたことで文通がスタートしました。
そして文通を開始して3年が経過したときにパリで再会し、数日後に2人でイタリアのローマを旅行していたときに西舘宏幸さんからのプロポーズで1963年に結婚することが決まりました。
結婚した当時、若尾文子さんは西舘宏幸さんについて、理想100%の人だと語っていました。
ところが、結婚してから5年が経過した1968年7月に、突然若尾文子さんが記者会見を開き、離婚したことを報告したのです。ただし、正確にはこの記者会見が行われた段階では離婚は成立していませんでした。若尾文子さんに対する未練が残っていた西舘宏幸さんが離婚協議に応じていなかったためです。
若尾文子さんが離婚が成立していないタイミングで記者会見を開いたのは、離婚成立に向けて既成事実を作るためでした。記者会見を開いた後に離婚調停がスタートし、1969年8月(離婚会見を開いて1年1カ月後)に、若尾文子さんが西舘宏幸さんに1000万円の慰謝料を支払うことで決着し、離婚が成立しました。
ちなみに、離婚理由として噂されていたのは、若尾文子さんが当時所属していた映画会社『大映』に対するあてつけではないかということです。事の真意は定かではないのですが、若尾文子さんは西舘宏幸さんと出会う前に、同じく大映に所属していた俳優・菅原謙二さんと交際していて、そのことを大映から大反対され強制的に別れさせられたことがあったそうです。
そしてその直後に若尾文子さんがヨーロッパを訪問して帰国したときには、菅原謙二さんが既に別の女性と結婚していたことを知らされ、たいそうプライドが傷つき、大映に対するあてつけのために西舘宏幸さんと結婚したのではないかと噂されています。
若尾文子と夫黒川紀章が参議院議員選挙に出馬
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若尾文子さんはかつて、参議院議員選挙に出馬したことがありました。
2007年7月29日に行われた第21回参議院議員通常選挙に、黒川紀章さんが党首を務める共生新党の公認候補として比例区から出馬したのです。出馬した当時の若尾文子さんの年齢は74歳でした。
選挙結果は残念ながら落選ということだったのですが、当時は昭和を代表する大女優が政界に進出しようとしていたことが連日、ニュースで取り上げられ話題をさらっていました。
黒川紀章さんから出馬を促された若尾文子さんは当初、死んでも出馬しないと出馬を頑なに固辞していたのですが、最終的には黒川紀章さんの熱意に押されて出馬を決意しました。
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選挙演説の際には夫婦仲睦まじく手をつないでいて、お互いに気を遣い合いながら生活をしているけれども、必要以上に口出しをしないことが夫婦円満の秘訣だと語っていました。
若尾文子が夫黒川紀章と死別
7年越しで結婚し、お互いを尊重し合いながら夫婦円満に過ごしてきた2人でしたが、2005年に、黒川紀章さんが膵臓ガンであることが発覚しました。
投薬治療や手術を経て病状は一進一退を繰り返していましたが、2007年10月12日午前8時42分に、東京女子医科大学病院で亡くなられました。病院には若尾文子さんの他に、黒川紀章さんの前妻の娘さんが付き添われていました。
黒川紀章さんが亡くなった後、マスコミのインタビューに対して、黒川紀章さんからガンであることを知らされたのは亡くなる前日のことだったと語っていました。最後の最後まで女優としての若尾文子さんのことを尊重し、決して迷惑をかけたくないとの思いが強かったのでしょう。
無くなる前日に交わされた最後の会話では、「私は良い奥さんではなかったよね」という若尾文子さんに対して、「そんなことを言わないでくれ、本当に好きだったんだよ」と返してくれたそうです。
若尾文子と夫黒川紀章に子供はいない
若尾文子さんと黒川紀章さんの間には子供はいません。
先述した通り、黒川紀章さんには元嫁との間に娘さんが1人いますが、親権は黒川紀章さんではなく元嫁が持っていますので、民法上でも若尾文子さんと黒川紀章さんの間には子供がいなかったということになります。
子供がいないことで寂しさを感じたことがなかったかと言うと断定できないそうですが、子供よりもお互いの仕事や人生でやりたい事に精力を注ぎこみ、お互いがお互いのことを尊重し合う関係を構築していたため、子供を作ろうという気持ちにはならなかったのかもしれません。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。