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出典:ameblo.jp
今回は、津田塾大学創始者である津田梅子さんについてご紹介します。
女性の社会進出を推し進めようとした津田梅子さんですが、プライベートでは結婚せず生涯独身を貫きました。伊藤博文さんとの交際説や子供が養子説の真相に迫ってみました。
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津田梅子は何をした人?に対する答えは女性の地位向上と津田塾大学創立に奔走した人
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2024年から5000円札の図柄に選ばれた津田梅子さん。世間では何をした人なのかを知らない人も少なくないようですが、津田梅子さんは津田塾大学を創立した人物で、女性の地位向上に奔走した人として知られます。
6歳のときに父親の仙の勧めによって、岩倉使節団の一員として渡米しました。渡米当初は右も左も分からない状態でしたが、11年間のアメリカでの生活は、その後の津田梅子さんの価値観を形成するうえで大きくプラスに作用しました。
津田梅子さんの父親である仙さんは、1867年に幕府の遣米使節の通訳として渡米した経験があるのですが、そのときにアメリカの農業や男女平等の様子を目の当たりにしました。
さて、6歳の頃から11年もの間、アメリカで過ごした津田梅子さんは、英語こそ堪能でしたが日本語が充分には使いこなせませんでしたので、日本に帰国した当初は居場所がありませんでした。
男性には職が与えられたのですが、女性である津田梅子さんには政府からも開拓使からも仕事が与えられることは一切ありませんでした。
津田梅子さんがアメリカから帰国した後に留学中にお世話になったランマン夫人(津田梅子さんは、ワシントン近郊のジョージタウンにあるランマン夫妻の家で下宿生活をしていました)に送った手紙の中で、津田梅子さんは自分のことを”移植された木”であると表現しています。日本での相当な居心地の悪さを感じていたことが分かります。
津田梅子さんが帰国して最も痛感したのは、アメリカの女性と日本の女性の地位の差でした。
当時の日本人女性は高等教育を受けることすら許されていませんでしたので、津田梅子さんはそんな日本の現状から将来を憂い、1900年(明治33年)に、津田塾大学の前身である女子英学塾を創設しました。
当時日本の学校で行われていたお行儀作法の習得に重きを置くのではなく、少人数方式のレベルが高い教育を目指した点が特徴でした。
津田梅子は結婚せず夫はいなかった
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津田塾大学の前身である女子英學塾の創立者で、日本における女子教育のパイオニアと評価されている津田梅子さん。一早く女性の社会進出を促そうとしましたが、ご本人は結婚せずに生涯独身を貫いた方でした。
今でこそ女性の社会進出は当たり前のことですが、津田梅子さんが生きていた1860年代から1920年代(元治、明治、大正、昭和の時代)は超が付くほどの男社会で、女性の社会進出はおろか、女性の社会的地位がとても低い時代でした。
そんな世の中にしていち早く女性の社会進出を促そうとした津田梅子さんは、まさに先見の明ありと言ったところです。
X(旧Twitter)上では、津田梅子さんは結婚しなかったというよりもむしろ、結婚しようとしなかったの方が正しいのかもしれないと呟いていた人がいました。
結婚しなかったというよりも結婚しようとしなかった。具体的にはどういうことなのでしょうか。
津田梅子は結婚しなかったのではなくしようとしなかった
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津田梅子さんは6歳のとき(明治4年)に、実の父親で尊敬する父・津田仙さんの勧めで、日本初の女子留学生としてアメリカに渡りました。
女子留学生の派遣が決定した背景には、優秀な男性を育てるためには女性が質の高い教育を受けられる場が必要だとの考え方がありました。
留学期間は11年にも及び、17歳のとき(明治15年)に留学を終えて帰国しました。帰国後に津田梅子さんを待ち受けていたのはとても悲惨な現状でした。
留学中に、母親にも教養が必要だという持論から女性の教育促進を声高に叫んでいた北海道開拓使は解散してしまっており、その事業を引き継いだ文部省(現在の文部科学省)は女子留学生に対して全くの無関心。
帰国こそした津田梅子さんでしたが、肝心の働く場所が見つからない状態でした。日本のために役立つ仕事をしなければならないと思い続けてきた津田梅子さんはがく然としてしまい、日本での女性の地位の低さにカルチャーショックを受けました。
そして、教育だけではなく結婚に関しても男女が不平等であるとも考えていたため、親友(一緒に留学していた3歳年上の永井繁さん)の結婚を心から祝福することができませんでした。
このような社会背景の時代に生きたため、津田梅子さんは敢えて結婚しようとはしなかったようです。
ですが、生涯独身を貫きはしたものの、途中恋の噂は何度かあったようです。
津田梅子の結婚相手候補は伊藤博文だった?!
津田梅子さんは親友である永井繁さんの紹介で、大学教授の神田乃武さんと出会い恋心を抱いていました。ところがほどなくして、神田乃武さんには好きな人(津田梅子さんと一緒に留学していた5歳年上の山川捨松さん)がいることに気付き、結果的には恋心を抱いただけでその思いを神田乃武さんに伝えることはありませんでした。
その後、かつて岩倉使節団のメンバーとして一緒にアメリカに行った伊藤博文さんと再会したことで津田梅子さんの人生が大きく転換しました。
伊藤博文さんから英語指導や通訳の依頼を受けて雇われ、伊藤家に住み込みで働くことになったのです。その後、明治18年(津田梅子さんが20歳のとき)に伊藤博文さんからの推薦で、華族女学校で英語教師になることが決まりました。
華族女学校で英語教師として約3年間教壇に立っていましたが、どうしても上流階級の気風には馴染むことができませんでした。
英語教師をしていた約3年間の間で、同僚や周囲の人たちから何件か縁談の話がもちかけられたこともあり、当初は1件1件丁寧に断っていましたが、我慢の限界を超えたのでしょうか。自分のところには結婚の話は持ってこないでほしい。もううんざりしているという旨の手紙を出したほどです。日本の結婚観や世間の風潮に相当嫌気がさしたのでしょう。
当時のことはご本人のみぞ知ることではありますが、もしかすると津田梅子さんは伊藤博文さんに対して密かに思いを寄せていたのかもしれません。
6歳のときに岩倉使節団で一緒に渡米し、帰国後は伊藤博文さんの自宅に住み込みで働いていく中で、尊敬や感謝の念が次第に恋心に移り変わっていったという可能性もあります。
津田梅子には子供はいないが養子がいた
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先ほどもお伝えした通り、津田梅子さんは生涯独身を貫いた人物ですので、子供がいないことは明らかです。ですが、晩年になってから、甥である津田眞さんを養子に迎え入れています。
さて、そんな津田梅子さんが晩年を迎えるまでの来歴を辿ってみると、実の子供こそいないものの、家には常に子供(人)がいる状態であったことが分かりました。
津田梅子さんは華族女学校での教員生活を終え、明治22年(188年)、24歳のときに再度留学するために渡米しました。
留学先であるブリンマー大学からはこのままアメリカに留まって研究を続けることを薦められましたが、明治25年(1892年)、27歳のときに日本に帰国し、再度華族女学校に勤務し始めました。
華族女学校で教員生活を続けつつ、自宅では女学生を預かるなど積極的に就学援助も行ったため、独身ではありながらも常に家には子供がいる状態でした。
その後、明治女学院や女子高等師範学校で教鞭をとつた後、明治33年(1900年)、35歳のときに、津田塾大学の前身である女子英学塾を設立し、自らが塾長として陣頭指揮を執り、華族平民の区別がない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めました。
津田梅子は結婚できない女性だった?!
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インターネット上では、「津田梅子 結婚できない」というキーワードが検索されています。生涯独身を貫き通したのは津田梅子さんご本人ですので、「結婚できない」というキーワードに違和感を覚えた人は少なくないのではないでしょうか。
この件について調べてみると、どうやら津田梅子さん自身が結婚できない女性だったというわけではなく、津田梅子さんのお墓(津田塾大学小平キャンパスから少し離れたグラウンドの奥にある石碑)にお参りすると結婚できなくなるという言い伝えがあるとのことでした。
半ば都市伝説化しているのですが、より詳しくは、1回お参りをすると結婚できなくなる、2回お参りをすると離婚する、3回お参りすると呪いが解かれると言われています。
まことしやかにささやかれている根も葉もない噂に過ぎないのですが、やはり結婚できなくなると言われると敏感になってしまう人がいるのも事実です。信じるか信じないかはその人次第ということなのでしょう。
津田梅子は結婚していないが子孫が凄い
津田梅子さんが生まれた津田家は、桓武平氏織田氏流で織田信長とは同族に当たります。晩年養子に迎えた津田眞の娘であるあい子と西郷隆盛の曾孫・西郷隆晄の間に生まれた次男が、写真家の津田直さんです。
出典:津田直
津田直さんは祖父である津田眞さんと養子縁組をし、2000年に津田梅子家の当主を継ぎました。
また、津田梅子さんの又甥に当たるのが、司法通訳翻訳論者であり社会学者であり、そしてフィリピン研究者でもある津田守さんです。
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また、子孫ではありませんが、津田梅子さんの父親である津田仙さんは青山学院大学の創立者で、新島襄さん(同志社大学を創立)、中村正直さん(東京大学教授で文学者)と並んでキリスト教界の三傑と称されています。
そして、津田梅子さんの伯母にあたる津田竹子さんは、徳川宗家第16代当主の生母、津田梅子さんの祖母である津田フクさんは栗沢汶右衛門(千人同心)の実姉と言われています。
まさに各界で活躍した、あるいは活躍中の層々たる面々が津田家一族であることを考えると、改めて津田梅子という人物がどれほど凄い人だったのかということが確認できます。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。